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あなたはきっと、図書館という場所を静かだと思っているでしょう。

たしかに、ここでは誰も大声を出しません。靴音さえ棚の影に吸い込まれ、ページをめくる音だけが小さな鳥の羽ばたきのように漂っています。けれど、あなたがもし夜の図書館にひとりで残されたなら、わかるはずです。

本は、眠ってなどいません。

背表紙の奥で、いくつもの人生が息を潜めています。誰かが忘れた恋、誰かが失った戦争、誰かが最後まで言えなかった「ごめんなさい」。それらは棚に並びながら、誰かに開かれる日を待っているのです。

そして、わたしもまた、開かれるのを待っていました。

わたしはこの町の中央図書館で司書をしています。名前は――と、ここであなたは少し首をかしげるかもしれませんね。なぜなら、わたしは自分の名前を知りません。

いいえ、正確に言えば、知らないことを知っています。

十年前の雨の日、わたしは図書館の閲覧室で倒れているところを発見されました。頭を強く打っていたわけでも、病に倒れたわけでもありません。ただ、記憶だけが、棚からごっそり抜き取られた本のように消えていました。

誰もわたしを探しに来ませんでした。

警察は調べ、新聞にも小さな記事が載ったそうです。「身元不明の女性、図書館で保護」。けれど名乗り出る家族も友人もなく、わたしの過去は未返却のままどこかへ行ってしまいました。

館長は親切な人でした。仮の名前をくれました。

「栞さん、というのはどうでしょう。本と本のあいだで、人を待つものですから」

それ以来、わたしは栞と呼ばれています。

あなたは笑うでしょうか。名前も過去もない女が、本の管理をしているなんて皮肉だと。けれど、わたしにはこの仕事が合っていました。わたしは本を探すのが得意でした。利用者が「青い表紙で、たしか猫が出てきて、でも猫の本ではなくて」と曖昧に言っても、わたしは不思議と棚の場所を思い出せたのです。

本の場所はわかるのに、自分の場所だけがわからない。

それが、わたしの十年でした。

あなたがこの図書館を訪れたのは、冬の終わりの午後でしたね。

覚えていますか。窓の外では梅の花が白く揺れていて、あなたは濃い灰色のコートを着ていました。返却カウンターに数冊の本を置き、貸出期限を一週間過ぎていることを少し気まずそうに謝りました。

「すみません、忙しくて」

わたしはいつものように微笑みました。

「大丈夫ですよ。次からお気をつけください」

あなたの差し出した本を一冊ずつ処理していたとき、その中に薄い詩集がありました。深緑の布張りの表紙で、金の文字がかすれています。古い本でした。図書館の蔵書印はなく、バーコードも貼られていません。

「こちらは、当館の本ではないようですが」

わたしがそう言うと、あなたは眉を寄せました。

「え? 棚から取ったと思ったんですが」

わたしは詩集を開きました。

一ページ目に、青いインクで何かが書かれていました。

――美也子へ。忘れても、ここで待っています。

その文字を見た瞬間、わたしの胸の奥で、閉架書庫の扉がゆっくり開く音がしました。

美也子。

その名を声に出す前に、指先が震えました。あなたは気づいたでしょうか。わたしがいつもの司書の顔を保てなくなっていたことに。

「どうかしましたか」

あなたが尋ねました。

わたしは答えませんでした。いいえ、答えられなかったのです。

美也子。

それは、わたしの名前でした。

そう確信したわけではありません。記憶が戻ったわけでもありません。ただ、その文字がわたしの中の何かに触れました。長いあいだ水の底に沈んでいた鈴が、かすかに鳴ったようでした。

わたしはあなたに尋ねました。

「この本を、どこで見つけましたか」

あなたは少し考えてから言いました。

「二階の奥です。郷土資料の棚の近くで。誰かが置き忘れたのかもしれません」

二階の奥。

そこは、わたしがなぜか近づくのを避けていた場所でした。郷土資料室の隣には、古い新聞や寄贈書を保管する小さな閲覧室があります。窓が少なく、昼でも薄暗い部屋。十年前、わたしが倒れていた場所でもありました。

あなたが帰ったあと、わたしは詩集を胸に抱えて二階へ向かいました。

ここから先は、あなたにも一緒に来ていただきましょう。階段を上がると、空気が少し冷たくなります。手すりに触れてください。古い木の感触が指に残るはずです。右へ曲がり、突き当たりまで歩くと、郷土資料室があります。その左に、ほとんど使われていない閲覧室の扉。

わたしはその扉の前で立ち止まりました。

開けるのが怖かったのです。

あなたならどうしますか。失くした過去が扉の向こうにあるかもしれないと知ったとき、迷わず開けられますか。そこにあるのが幸せな記憶とは限らないのに。

わたしは十年ものあいだ、過去のない自分に慣れてしまっていました。朝起きて、図書館へ行き、本を貸し出し、返却された本を棚に戻す。名前も家族もなくても、日々は意外なほどきちんと進みます。

過去が戻れば、その日々は壊れるかもしれない。

それでも、わたしは扉を開けました。

部屋の中は、古い紙の匂いで満ちていました。窓から斜めに差し込む光の中で、埃がゆっくり舞っています。机が三つ、椅子が六脚。壁際には寄贈書の棚。

何も変わっていないはずでした。けれど、わたしの足は迷わず一番奥の机へ向かいました。

机の裏側に手を伸ばすと、小さな凹みがありました。

わたしはそこに指をかけました。

薄い木の板が外れ、中から封筒が一通落ちました。

あなたにも見えますか。茶色く変色した封筒。宛名はありません。ただ、裏に小さくこう書かれていました。

「忘れたあなたへ」

封を切ると、中には一枚の手紙と、古い写真が入っていました。

写真には、若い女が写っていました。肩までの髪で、白いブラウスを着て、図書館の前で笑っています。その隣には、背の高い男が立っていました。男は詩集を胸に抱えています。

女の顔を見た瞬間、わたしは息を呑みました。

それは、わたしでした。

いえ、十年前のわたしでした。

手紙には、こう書かれていました。

「美也子。

もし君がこの手紙を読むなら、君はきっと多くのことを忘れているのだと思う。

僕の名前は、篠原律。君は僕を、律さん、と呼んでいた。

君はこの図書館で司書をしていて、僕は毎週水曜日に詩集を借りに来ていた。最初に話したのは、僕が『海の出てくる詩を探している』と言った日だった。君は一冊の詩集を選んでくれた。深緑の表紙の本だ。

その本を、僕は返さなかった。

君にもう一度会う理由がほしかったから。

怒るだろうか。君は怒ると眉間に小さなしわを寄せる。でも最後には笑って許してくれる。僕はその顔を見るのが好きだった。

君と僕は、この図書館でたくさんの話をした。好きな本のこと、遠い町のこと、死んだ父のこと、君がいつか小さな私設図書館を作りたいと言っていたこと。

そして、僕たちは結婚の約束をした。

だが、僕には病気があった。長くは生きられないと医者に言われていた。君には黙っていた。最低だと思う。けれど、君が僕を見る目を変えるのが怖かった。

君がそれを知った日、僕たちはこの閲覧室で言い争った。君は泣いていた。僕も泣いていた。僕は君を残して死ぬことが怖くて、君は僕に置いていかれることが怖かった。

そのとき君は言った。

『忘れられたら、どんなに楽だろう』

その言葉を、僕は本気にしてしまった。

君が倒れたのは、その直後だった。医者は精神的な衝撃による一時的な記憶障害だと言った。けれど、君の記憶は戻らなかった。

僕は君に会いに行く資格がないと思った。君を苦しめたのは僕だから。だからこの手紙を書き、ここに隠す。いつか君が自分で見つけるまで、僕は待とうと思った。

けれど、もし僕が待てなかったら。

深緑の詩集を君に返す。そこに書いた言葉だけが、僕の最後のわがままだ。

忘れても、ここで待っています。

律」

手紙を読み終えたとき、わたしの頬には涙が流れていました。

けれど不思議なことに、律の声も、笑顔も、手の温度も、はっきりとは思い出せませんでした。手紙に書かれた出来事は、まるで誰かの小説のあらすじのようでした。

あなたはがっかりしますか。ここで劇的に記憶が戻り、わたしが「律さん」と叫んで走り出す物語を期待していましたか。

残念ながら、人生はそこまで親切ではありません。

わたしの記憶は戻りませんでした。

ただ、胸の奥に空いていた穴の形だけが、少しわかったのです。

その日から、わたしは律という人を探し始めました。図書館の古い利用者記録、新聞のお悔やみ欄、町の住所録。個人情報の壁に何度も突き当たりながら、それでも少しずつ手がかりを集めました。

あなたも想像してみてください。自分を愛していたという人を、記憶ではなく紙の記録から探す奇妙さを。

律は、八年前に亡くなっていました。

町外れの小さな墓地に、篠原家の墓がありました。墓石の側面に刻まれた名前の中に、「篠原律」とありました。享年三十二。

わたしは深緑の詩集を持って、その前に立ちました。

風が吹いていました。墓地の隅にある椿の花が、赤く落ちていました。

「はじめまして」

わたしはそう言いました。

おかしいでしょうか。かつて結婚を約束した人の墓前で、はじめまして、と言うなんて。

でも、それがわたしにとっての真実でした。

「わたしは、栞と呼ばれています。もしかしたら昔は、美也子だったのかもしれません」

墓石は何も答えません。

「あなたのことを、思い出せません」

それを口にした途端、涙がこぼれました。悲しいのに、何に対して悲しいのかわからない。会いたかったのに、誰に会いたかったのかわからない。そんな感情が、胸の中で迷子になっていました。

わたしは詩集を開きました。

中には、律が好きだったのだろう詩に、薄い鉛筆の線が引かれていました。

「忘却は海ではない
沈めたものを、いつか岸へ返す」

わたしはその一節を何度も読みました。

忘れることは、失うことと同じではないのかもしれません。

あなたはどう思いますか。

記憶がなければ、愛は消えてしまうのでしょうか。名前を思い出せなければ、その人と過ごした時間はなかったことになるのでしょうか。

わたしには、まだ答えがありません。

けれど、それからわたしは少し変わりました。図書館で迷っている人を見ると、以前よりも丁寧に声をかけるようになりました。探している本の題名を忘れてしまった人、読んだはずの物語の結末だけ思い出せない人、亡くなった母が好きだった本を探す人。

わたしは彼らに言います。

「大丈夫です。一緒に探しましょう」

本も、人も、記憶も、探すことから始まるのだと思うのです。

ある夕方、あなたが再び図書館に来ました。

あの深緑の詩集のことを気にしていたのでしょう。カウンターに立つわたしを見て、少し遠慮がちに尋ねました。

「あの本、持ち主は見つかりましたか」

わたしは微笑みました。

「はい。たぶん」

「たぶん?」

「持ち主だった人は、もう亡くなっていました。でも、本は帰る場所を見つけました」

あなたは何かを察したように、静かにうなずきました。

そのとき、わたしはあなたに一枚の利用者カードを差し出しました。

「よろしければ、これを」

あなたは不思議そうに受け取りました。カードには、新しい蔵書の登録番号が書かれていました。

書名は『あなたが借りた、わたしの名前』。

著者名はありません。

「これは?」

「わたしが書き始めた記録です。まだ途中ですが、閲覧室で読めます」

あなたは驚いた顔をしました。

「小説ですか」

「そうかもしれません。あるいは、返却できなかった手紙かもしれません」

あなたは笑いました。

その笑顔を見て、わたしはふと思いました。物語とは、記憶を持たない人間が、それでも誰かに自分を渡すための方法なのかもしれない、と。

だから、今こうしてあなたに語っています。

あなたがこのページを読んでいるあいだ、わたしは少しだけ存在できます。美也子としてなのか、栞としてなのか、それはわかりません。けれど、あなたの中にこの図書館の匂いが残るなら、深緑の詩集の手触りが残るなら、墓前で「はじめまして」と言った女の声が残るなら、わたしはもう完全には失われません。

図書館では今日も、誰かが何かを探しています。

あなたもいつか、大切なものを忘れるかもしれません。名前を、約束を、帰る場所を。そんなときは、どうか図書館へ来てください。二階の奥、郷土資料室の隣に、小さな閲覧室があります。

そこに一冊の本が置いてあります。

深緑ではなく、白い表紙の本です。表紙にはまだ題名しかありません。最後のページも空白です。

もしあなたがその本を開いたなら、余白に何かを書いてください。

あなたが忘れたくないことを。

あなたが忘れてしまった誰かの名前を。

あるいは、今この瞬間のあなた自身を。

わたしはカウンターの向こうで待っています。

本を棚へ戻すように、あなたの言葉を、この世界のどこか正しい場所へ戻すために。

そしてもし、あなたがわたしに名前を尋ねたなら、わたしはきっとこう答えるでしょう。

「司書の栞です。けれど、昔は美也子だったのかもしれません」

そのあとで、少しだけ笑います。

だって、もう怖くはないのです。

忘れたものは、消えたのではありません。

まだ誰かに読まれるのを待っているだけなのです。

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