広告

あなたは今日も、静かな図書館のカウンターに立っている。窓から差し込む光が、古い木の机を照らし、埃がゆっくりと舞う。その光景は、昨日も一昨日も、変わらない。けれど、あなたは自分の名前すら思い出せない。朝、鏡に映った顔は見覚えがあるようで、ないようで、ただ「司書」という役割だけが、確かな手触りとして残っている。

「こんにちは」
今日も、誰かがカウンターに近づいてくる。あなたは微笑み、いつものように尋ねる。「どの本をお探しですか?」
相手は少し戸惑った顔で、棚の奥を指差す。「あの、赤い背表紙の本を……」
あなたは頷き、足を動かす。足は自然に動き、棚の位置を体が覚えている。まるで、あなたの体だけが、過去の記憶を背負っているかのように。

しかし、心は空っぽだ。
あなたがこの図書館に来たのは、いつからだろう? なぜ、記憶を失ったのか? 誰かが教えてくれたはずなのに、その声すら霧の中に消えている。夜、閉館後に一人で本を整理していると、ふと胸がざわつく。あるページを開くと、インクの匂いが記憶の欠片を呼び起こす気がするのだ。

「この本、読んだことありますか?」
今日も、常連の老人が声をかけてくる。あなたは首を横に振る。「いいえ、初めてです」
嘘ではない。毎日本は新しい。けれど、老人の目には、どこか哀しい光が宿る。「そうか……あなたは、いつもそう言うね」
その言葉に、あなたは立ち止まる。いつも、と言われた瞬間、胸の奥がざわめく。もしかすると、あなたは同じ会話を何度も繰り返しているのかもしれない。記憶を失う前から、この図書館で、同じ本を、同じ人に貸し出しているのかもしれない。

夜が更ける。
最後の客が出た後、あなたは一人で書架の間を歩く。指が本の背に触れるたび、かすかな震えが走る。『失われた時を求めて』という本のページをめくると、突然、頭の中に一枚の写真が浮かぶ。古い木の机と、窓辺に座る誰かの後ろ姿。けれど、その誰かの顔はぼやけていて、名前は聞こえてこない。

あなたは本を閉じ、カウンターに戻る。
「明日も、ここにいる」
自分にそう言い聞かせる。なぜなら、記憶がなくても、図書館はあなたを受け入れてくれるからだ。貸出カードに書かれた名前は、あなたのものではない。けれど、毎日新しい本を手に取るたび、あなたは少しずつ、失われたページを探している。

「次に会う人には、どんな本を勧めるだろう」
あなたはそう思いながら、明かりを落とす。図書館の闇の中で、本の匂いが静かにあなたを抱きしめる。記憶はまだ戻らない。けれど、物語は、今日もここで続いている。

おすすめの記事