【日記:2026年5月15日】
今日からこのノートを付け始めることにした。
高城博士から「記憶の定着と整理のために、主観的な出来事をできる限り詳細に記録しなさい」と指示されたからだ。
私の脳に『Q-MEM(キュー・メム)』と呼ばれる量子記憶アシスト用のインプラントが埋め込まれてから、ちょうど一ヶ月が経つ。手術は成功し、私の脳は「過去に自分が選択し得た、あらゆる可能性の記憶」を同時に保持できるようになった。
高城博士はこれを「人類の決定論からの解放」と呼んでいる。
例えば、今朝の朝食だ。私はトーストにバターを塗って食べた。その一方で、私は和食(鮭の塩焼きと味噌汁)を食べた記憶も、完全に同じ生々しさで持っている。さらに言えば、寝坊して朝食を抜いた記憶もある。
これらは単なる「想像」ではない。私の脳にとっては、すべてが「実際に体験した過去」なのだ。
現実の世界(博士が言うところの『基底現実』)で私が選択したのはトーストだった。しかし私の意識の中には、和食の味も、空腹感も、すべて一分一秒の狂いもなく同時に存在している。
少し頭痛がするが、生活に支障はない。
夜、恋人の沙耶が私の部屋にやってきた。
彼女は私の大好きな、少し焦げ目のついたハンバーグを作ってくれた。私たちはビールで乾杯し、来月の旅行の計画について話した。彼女の笑顔はいつ見ても私を安心させてくれる。
【マンション「ヴィラ・コズモス」302号室 監視カメラ記録】
録画日時:2026年5月15日 19:30:12 〜 21:45:00
[19:30:12]
被験者・真壁蓮(以下、対象)が帰宅。玄関前で約3分間、直立不動のまま静止。右手をドアノブにかける動作と、ポケットから鍵を取り出す動作を交互に、異常に素早いステップで繰り返す(まるでフレームレートが落ちたような不自然な動き)。
[19:35:05]
対象が室内に入る。リビングの照明を点灯。
[20:15:00]
対象、キッチンに立つ。冷蔵庫から何も取り出さず、空のフライパンを点火。中身のないフライパンをヘラで30分間にわたり炒める動作を繰り返す。時折、虚空に向かって「焦げ目がちょうどいいね、沙耶」と話しかける。
[21:00:22]
対象、ダイニングテーブルに着席。空の皿を二つ並べ、虚空に向かって缶ビールを突き出す。「乾杯」と発声。その後、ビールを一人で二缶同時に飲み干そうとするが、物理的に不可能なため、片方のビールが床にこぼれる。対象はそれを気に留める様子もなく、笑顔で正面の誰もいない空間(椅子)に話しかけ続けている。
【日記:2026年5月18日】
頭痛がひどくなってきた。記憶のノイズが、まるで静電気のように脳の裏側でパチパチと音を立てている。
昨日、私は沙耶と激しい喧嘩をした。
原因は、私が彼女の約束を忘れていたことだ。いや、正確には「約束を守った記憶」と「約束を破った記憶」の両方が同時に存在するため、どちらがこの世界で起きたことか判断がつかなかったのだ。
私は彼女とイタリアンレストランで食事をした。だが、同じ時間に、私は家で一人でテレビを見ていた。そして同時に、私は彼女に「仕事が忙しい」と冷たいメールを送って彼女を泣かせた。
「蓮、あなた最近おかしいわ。私のことを見ていない」
沙耶は泣きながらそう言った。
私は彼女の肩を抱き寄せ、謝罪した。彼女は私の胸で泣き崩れ、やがて許してくれた。私たちは仲直りをして、一緒に眠りについた。彼女の髪からは、いつも使っているジャスミンのシャンプーの香りがした。
もう一つの記憶では、彼女は怒って部屋を飛び出していった。
さらに、もう一つの記憶では、彼女は最初から私の部屋に来ていない。
そして……恐ろしい記憶が、時折、暗い沼の底から泡のように浮かび上がってくる。
暗闇の中、私が彼女の首に手をかけている記憶。彼女の首が締まり、ジャスミンの香りが途絶え、彼女の体が冷たくなっていく記憶だ。
まさか。そんなはずはない。だって、今も私の横で、彼女は穏やかな寝息を立てて眠っているのだから。私は彼女を愛している。殺すはずがない。
【マンション「ヴィラ・コズモス」302号室 監視カメラ記録】
録画日時:2026年5月18日 21:00:00 〜 23:30:00
[21:15:30]
対象、リビングの中央で激しく往復ビンタを自らに施す。その後、床に倒れ込み、「沙耶、ごめん」と叫びながら、誰もいない空間を抱きしめるように両腕を丸める。
[22:00:45]
対象が突然起き上がり、表情を完全に失った状態で壁を見つめる。対象の右手は、まるで誰かの首を絞めるような形で固定され、激しく震えている。対象の喉から「う、う、う」という押し殺したような声が漏れる。
[22:45:12]
対象、ベッドルームへ移動。ダブルベッドの左側に横たわる。その後、右側の枕(誰も使用していない)に向かって腕を伸ばし、髪を撫でる仕草を繰り返す。
カメラの音声マイクが、対象の呟きを拾う。「いい匂いだね、沙耶。このシャンプー、新しく買ったやつだろう?」
[23:15:00]
対象、突然目を見開き、天井を凝視。そのまま朝まで一歩も動かず、瞬きもほとんどしない状態が続く。
【日記:2026年5月22日】
高城博士の研究所に行ってきた。私は彼にすべてをぶちまけた。
「博士、私の脳の中で、過去が混ざり合っている! どれが現実の私なのかわからないんだ!」
博士は冷徹な目で私を見つめ、キーボードを叩きながら言った。
「蓮くん、混ざり合っているのではない。すべてが同時に存在しているんだ。『Q-MEM』は君の脳を量子超越状態に保っている。君にとって、すべての過去は等価だ。選択されなかった可能性も、選択された現実と同じだけの質量を持って君のニューロンに刻まれている。君は、すべての世界線を同時に生きている唯一の人間なんだよ」
「そんなことはどうでもいい! 沙耶はどこだ? 彼女は私の部屋にいるのか、それとも実家に帰ったのか、あるいは……!」
私は叫んだ。私の脳裏には、彼女の冷たくなった遺体を、マンションのクローゼットの奥に押し込んでいる私の記憶が、あまりにも鮮明に焼き付いていた。
博士は眼鏡の奥の目を光らせ、こう言った。
「彼女がどうなっているかは、君が決めることだ、蓮くん。君が『観測』を確定させれば、世界は一つに収束する。だが、今の君はすべての可能性を抱え込んだまま、重ね合わせの状態で生きている。君自身が、シュレーディンガーの猫なのだよ」
私は博士の言葉に耐えかね、デスクの上にあったペーパーナイフを掴み、彼の喉に突き刺した。血が噴き出した。
いや、私は思い留まり、彼に頭を下げて安定剤を処方してもらった。
あるいは、私は何も言わずに研究所を立ち去り、ただ雨の中を歩き続けた。
どの結末も、私にとっては「真実」だ。私の手は血に染まっていると同時に、白く清潔なままであり、そして雨に濡れて凍えている。
【量子情報医学研究所 診察室 監視カメラ記録】
録画日時:2026年5月22日 14:00:00 〜 15:00:00
[14:15:22]
真壁蓮(対象)が診察室に入室。高城博士(以下、医師)の正面に座る。
[14:20:05]
対象、激しく興奮した様子で身振り手振りを交えながら医師に詰め寄る。しかし、音声記録によれば、対象の言葉は時折「私は殺した」「私は殺していない」「私はここに来ていない」という矛盾する単語が重なり合い、不協和音のようなノイズとなって出力されている。
[14:35:40]
対象が突如として立ち上がる。デスクの上のペーパーナイフを右手で掴むが、同時に左手で自分の右手を掴んで制止する。対象の両手は、ナイフを「突き刺そうとする力」と「引き剥がそうとする力」で拮抗し、異常な振動を見せる。
医師は椅子を後ろに引き、警戒した表情で対象を注視。
[14:38:12]
対象、ナイフをデスクに戻し、突如としてその場に膝をつき、激しく号泣し始める。
医師が内線で警備員を呼ぶ。
[14:45:00]
対象、警備員二名に伴われて退室。医師は深くため息をつき、カルテに「被験者の精神的崩壊。量子記憶の統合不全による自己同一性の喪失」と記入。
【日記:2026年5月28日】
もう日記を書く意味があるのかわからない。ペンを握る私の手が、時折三つにも四つにもブレて見える。
私は今、自室のベッドの上にいる。
沙耶が私の隣で微笑んでいる。彼女は生きている。私たちは明日、結婚する予定だ。
だが同時に、私の部屋のクローゼットからは、ひどい腐敗臭が漂っている。私は一週間前に彼女を殺害し、遺体をそこに隠した。ハエが羽音を立てているのが聞こえる。
さらに、この部屋には誰もいない。私は生まれてからずっと孤独で、沙耶という女性など、私の脳が創り出した『Q-MEM』のバグによる幻影に過ぎないという記憶もある。
どれが現実だ?
クローゼットを開ければわかる。
しかし、私には開けられない。開けた瞬間、私はどれか一つの「昨日」に固定されてしまう。
沙耶が生きている世界を選ぶか?
沙耶を殺した人殺しの世界を選ぶか?
あるいは、愛する人など最初から存在しなかった虚無の世界を選ぶか?
いや、私はどれも選びたくない。すべてが私であり、すべての過去が私にとっての大切な真実なのだ。
私はこの部屋から出ない。
誰かがノックしている。警察かもしれない。あるいは、仕事から帰ってきた沙耶かもしれない。あるいは、私を回収しに来た高城博士の部下たちかもしれない。
私は日記を閉じる。いや、開き続ける。いや、破り捨てる。
【マンション「ヴィラ・コズモス」302号室 監視カメラ記録】
録画日時:2026年5月28日 18:00:00 〜 20:30:00
[18:00:15]
対象、部屋の中央で佇んでいる。彼の輪郭が異常に不鮮明(残像が何重にも重なっているような状態)に見える。カメラのオートフォーカス機能が激しく作動し、エラーコードを吐き出す。
[18:30:00]
玄関のチャイムが連打される。外から「警察です。真壁蓮さん、開けなさい。近隣住民から異臭の通報がありました」との音声が記録される。
[18:32:10]
対象は玄関を見つめたまま、一歩も動かない。彼の体が激しくブレ始める。
カメラ映像において、対象の姿が一瞬「クローゼットの前に立つ姿」「ベッドの上で耳を塞ぐ姿」「ノートに何かを書き殴る姿」の三体に分裂して投影される。これはレンズの屈折や光学的バグではなく、物理的な位置情報そのものが多重化しているように見える。
[18:35:00]
警察官二名がドアを破って突入。
警察官A、即座に鼻を覆う。「なんだ、この臭いは……!」
警察官B、部屋中央に立ち尽くす対象に向けて叫ぶ。「真壁蓮だな! 動くな!」
[18:36:15]
驚くべき事象が発生。
突入した二名の警察官が対象の身柄を確保しようと手を伸ばした瞬間、対象の姿が、まるで霧が散るように、一瞬にしてカメラのフレームから完全に消失。
対象が直前まで持っていたノート(日記帳)だけが、重力に従って床に落下する。
[18:37:00]
警察官Aがクローゼットを開放。
中から、完全に腐敗した若い女性(身元確認の結果、内田沙耶と判明)の遺体が発見される。死亡推定時刻は一週間前。
[18:40:00]
警察官Bが室内を捜索するが、真壁蓮の姿はどこにもない。窓は全て施錠されており、ベランダからの脱出経路もない。部屋は完全な密室状態であった。
床に落ちたノートを警察官Bが拾い上げる。
ノートの最終ページには、無数の異なる筆跡で、同一の文章が何重にも重ねて書き殴られていた。
『私はここにいる。そして、ここにはいない』
【未公開:量子情報医学研究所 サーバー監視ログ】
システムエラー検知:2026年5月28日 18:36:15
警告: 被験者NO.09(真壁蓮)の『Q-MEM』端末より、異常な量子フィードバックを検知。
被験者の脳内における量子重ね合わせ状態が、インプラントの制限出力を超越。
周囲の物理空間(基底現実)に対する観測が「全状態の同時確定(スーパー・ポジショニング)」へと移行。ステータス: 被験者の物理的存在確率が、空間全体に拡散(100%から0.00001%へと均等分散)。
物理的追跡、不可。
現実世界への収束、失敗。被験者・真壁蓮は、すべての『もしも』の中に移行しました。