あなたは雨の匂いがする路地を歩いている。
傘を持っていない。だが不思議と濡れていない。あなたは六十二歳で、退職してから三年が経つ。妻はいない。正確には、いたが、いなくなった。子どもたちはそれぞれの街で、それぞれの生活を営んでいる。年に一度、義務のように電話がかかってくる。あなたはそれを煩わしいと思い、同時に、それがなくなることを恐れている。
路地の突き当たりに、見覚えのない建物がある。
灰色の石造りで、入口の上に金文字の看板が掲げられている。あなたはそれを読もうとするが、文字がうまく像を結ばない。アルファベットのようでもあり、漢字のようでもあり、見ているそばから形を変えていく。ただ、看板の下に小さく、こう書かれているのだけは読めた。
「返本図書館」
あなたは扉を押す。
冷たい真鍮の取っ手。きしむ蝶番。中は薄暗く、しかし不快ではない。木と紙と、わずかな埃の匂い。天井まで届く書架が、迷路のように並んでいる。あなたはこういう場所が好きだった。若い頃は。本を読む時間が、たっぷりとあった頃は。
「いらっしゃいませ」
声がする。あなたは振り返る。受付らしき机の向こうに、年齢の判然としない人物が座っている。男のようでもあり、女のようでもある。とても若く見えるのに、目だけが古い。
「ご利用は初めてですか」
あなたは頷く。
「では、簡単にご説明を。ここは少し変わった図書館です。本をお読みいただくと――」その人物は微笑む。「お客様は、若くなります」
あなたは笑おうとする。冗談にしては手が込んでいる。だが相手の目は真剣だった。古い目が、あなたをまっすぐに見ている。
「一冊読み終えるごとに、おおよそ一年。長い本ならもう少し。短い本なら少し短く。読んだ分だけ、時間が戻ります」
「それで」とあなたは言う。声がかすれている。「料金は」
「無料です。ただし」
「ただし?」
「貸し出しはできません。お持ち帰りもできません。本は、この館の中でだけ読めます。そして――読み終えた本は、二度と読めなくなります。返してしまうので」
あなたは意味を測りかねる。だがその時のあなたは、まだ何も理解していなかった。
あなたは最初の一冊を、半信半疑で手に取った。
子どもの頃に読んだ冒険小説だった。少年が船に乗り、嵐を越え、見知らぬ島で宝を探す。あなたはそれを、ただ懐かしさから選んだ。
読み終えて顔を上げたとき、世界が少しだけ鮮やかになっていた。
書架の文字がくっきりと見える。老眼鏡をはずしている。手の甲を見ると、皺が浅くなっている。鏡はどこにもないのに、あなたは自分が若返ったことを確信する。骨が軽い。背筋がまっすぐ伸びている。六十一歳。あなたは六十一歳になっていた。
それから、あなたは夢中になった。
二冊目。詩集だった。学生の頃、好きだった人が好きだった詩人。あなたはその人のことを、もう何十年も思い出していなかった。読み終えるころ、あなたは五十九歳になっていて、その人の笑い方を、はっきりと思い出していた。
三冊目、四冊目、五冊目。
哲学書を読んで五十六歳になり、推理小説を読んで五十四歳になり、戦争を記録した分厚いルポルタージュを読んで五十一歳になった。
あなたは時間を忘れた。いや、時間を巻き戻していた。書架の間を歩くたび、足取りが軽くなる。読むたびに、目がよく見え、手がよく動き、頭がよく回る。忘れていた言葉が戻ってくる。忘れていた感情が戻ってくる。
五十歳。四十五歳。四十歳。
四十歳の本を読み終えたとき、あなたはふと、受付のあの人物のことを思い出した。歩いていくと、まだそこにいた。古い目で、あなたを見ていた。
「楽しんでおられますか」
「ああ」とあなたは言う。自分の声が、若く、張りがある。「素晴らしいよ。こんな場所があるなんて」
「気をつけてくださいね」と相手は言った。「一つだけ」
「何を」
「読み終えた本は、返ってしまうと言いました。あれは、本の中身が消えるのではありません」相手は静かに言った。「お客様の中から、消えるのです」
あなたは意味を問おうとする。だが若返ったあなたは、せっかちだった。四十歳のあなたは、まだ世界に対して傲慢だった。あなたは肩をすくめて、また書架へ戻っていった。
三十五歳。三十歳。
あなたは気づき始める。
ある本を読み終えたあと、あなたは妻の顔を思い出そうとした。出てこなかった。輪郭はある。声もある。だが、結婚式の日に彼女が何と言ったか――それが、思い出せない。
別の本を読み終えたあと、長男が初めて歩いた日のことを思い出そうとした。出てこなかった。あの小さな手が、あなたの指を握った感触。それが、抜け落ちている。
あなたは立ち止まる。三十歳のあなたは、まだ取り返しがつくと思っている。
返ってしまうのは、本の中身ではない。あなたの中の、その本に対応する歳月だ。一年若返るたびに、あなたはその一年を生きたという事実そのものを、図書館に返している。
読むたびに若くなる。若くなるたびに、失う。
あなたは決断を迫られる。今ここで、止めるべきだ。三十歳のあなたは、まだ多くを持っている。あなたは受付へ戻ろうとする。
だが、書架の間で、一冊の本が目に入った。
表紙には何も書かれていない。だが手に取った瞬間、あなたにはわかった。これはあなた自身の物語だ。あなたがまだ生きていない、これからの物語。あるいは、生きたかもしれない物語。
あなたはそれを開く。止められない。
二十五歳。二十歳。
あなたは若い。あなたは何でもできる。膝は痛まず、息は切れず、夜は眠らずとも平気だ。鏡のない図書館で、あなたは自分の顔がなめらかになっていくのを、肌で感じている。
だが同時に、あなたの中は、軽くなっていく。
母が死んだときのことを、あなたはもう思い出せない。最初の仕事で叱られたことも、初めて誰かを愛したことも、誰かに裏切られたことも、それでも誰かを赦したことも――一冊ごとに、ひとつずつ、返していく。
二十歳のあなたは、ほとんど何も持っていない。だが、それを寂しいとは感じない。失った記憶は、失ったという感覚すら持っていかれるからだ。あなたは身軽だ。あなたは自由だ。あなたは――空っぽに近づいている。
十八歳。十五歳。
あなたは受付の前に立っている。いつ戻ってきたのか、覚えていない。
「もう、おやめになりますか」と、その人物が言う。古い目が、あなたを見ている。
あなたは口を開く。だが、何を言いたかったのか、わからない。あなたは自分がなぜここに来たのかを、もう思い出せない。傘を持たずに歩いていた路地のことも、退職という言葉の意味も、年に一度かかってきた電話のことも。
「あなたは、この本を読むたびに、ひとつの人生を返してこられました」と相手は言う。「もう、ほとんど残っていません。あと数冊で、お客様は生まれる前に戻られる」
「それは」と、十五歳のあなたは尋ねる。少年の、少女の、まだ性別すら曖昧な、澄んだ声で。「それは、悪いことなの」
「わかりません」と相手は正直に答えた。「ただ、一つだけ確かなことがあります。生まれる前に戻れば、お客様はこの図書館に来たことも、忘れます。そして、また同じ路地を、最初から歩き始めることになる」
「ぐるぐる回るの?」
「ええ。何度でも」
十五歳のあなたは考える。だがその思考は、もう深く潜らない。あなたは多くを失いすぎた。考えるための材料を、本に返してしまった。
そのとき、あなたはふと、受付の人物の古い目をのぞき込む。そして、わかってしまう。
「あなたも」とあなたは言う。「ここの利用者だったんだね」
その人物は、初めて、本当に微笑んだ。古い目に、ほんの少し、水の膜が張った。
「最後まで読み切った者が」と彼は、あるいは彼女は言った。「次の司書になるのです。生まれる前に戻る代わりに、ここに残ることを選んだ者が。私は、永遠に近い時間、ここで本を貸し続けています。なぜそうしたのかも、もう覚えていない」
「寂しい?」
「覚えていないことは、寂しめません」
あなたの手には、最後の一冊が握られている。
いつ手に取ったのか、わからない。表紙には、消えかけた金文字で「返本」と書かれている。
これを読めば、あなたはゼロに戻る。すべてを返し終え、また路地から始める。あるいは、読み切ることで――司書になることを選べば、ここに残る。空っぽのまま、永遠に。
あなたには、もう損得を計算する記憶がない。後悔すべき過去も、期待すべき未来も、ほとんど返してしまった。
だが、あなたの中に、たったひとつだけ、まだ残っているものがある。
それは記憶ではない。知識でもない。論理でもない。
それは、最初の一冊を読んだときの、あの感覚だ。子どもの頃に読んだ冒険小説。少年が船に乗り、嵐を越え、見知らぬ島で宝を探した、あの物語。内容はもう覚えていない。だが、ページをめくるときの、あの胸の高鳴り。次の行に何が書かれているのかを知りたいという、あの渇き。
それだけが、すべてを返してもなお、あなたの中に残っている。
人は、生きた歳月を忘れても、生きたいと願う心は忘れない。
あなたは本を、そっと書架に戻す。
「読まないの?」と司書が尋ねる。
「うん」とあなたは言う。十五歳の、まだ何者でもない声で。「まだ、読んでない本が、たくさんあるみたいだから」
あなたは書架を見上げる。天井まで届く、無数の背表紙。その一冊一冊が、誰かの生きた歳月だ。返された人生の、墓標であり、種でもある。
「ここから出れば」とあなたは尋ねる。「ぼくは、また年をとる?」
「ええ。今のお歳から、また一日ずつ」
「失ったものは、戻らない?」
「戻りません。でも」と司書は言った。「これから、新しく持つことはできます」
あなたは扉へ向かう。冷たい真鍮の取っ手。きしむ蝶番。
外は、雨が上がっていた。
あなたは十五歳で、ほとんど何も持っていない。家族の記憶も、職歴も、後悔も、すべて書架に返してきた。だが、空っぽの両手は、何かをつかむために空いているのだとも言える。
あなたは路地を歩き出す。傘はいらない。雨はもう降っていない。
背後で、扉が静かに閉まる。振り返ると、そこにはもう、灰色の建物はない。ただの、行き止まりの壁があるだけだ。
あなたはそれをしばらく見つめ、それから、前を向く。
濡れた石畳に、夕日が反射している。空気は、紙の匂いがする。
あなたは歩き続ける。これから始まる、読んだことのない物語の、最初の一行を生きるために。