聞き取り調査記録
対象事件:旧市庁舎時計塔転落事故
発生日:十月二十一日 午後十一時五十九分頃
被害者:灰島 玲司(四十二歳・時計技師)
調査担当:市文化財課臨時調査員・三崎
証言一
対象者:塔守・野々村 玄一(七十一歳)
聴取日:十月二十三日
――灰島さんが塔へ入った時刻を覚えていますか。
「十一時半を少し過ぎた頃だ。わしは下の詰所にいた。あの日は雨がひどくてな、石段が滑るから、上がるなら気をつけろと言った」
――灰島さんは何と。
「『今夜中に針を戻さなければならない』と。妙な言い方だった。普通は針を進めるとか、直すとか言うだろう。だが、あの時計は普通ではない」
――逆回転の時計塔、ですね。
「そうだ。旧市庁舎の時計は、二十年前の改修以来、逆に回る。長針も短針も、左へ左へと戻っていく。市は観光名物だと言っているが、本当は故障だ。直そうとした技師は何人もいた。だが、みな途中で投げ出した」
――灰島さんは直せると?
「彼は直す気などなかった。むしろ守ろうとしていた」
――何を。
「時間だよ」
――事件当夜、鐘は鳴りましたか。
「鳴った。十一時五十九分に一度。十二時に十二度鳴るはずの鐘が、一度だけ。わしはその音で外へ出た。すると塔の上から、誰かが叫んだ」
――誰の声でしたか。
「女の声だった」
――被害者は男性です。
「だから奇妙なんだ。女が『戻して』と叫んだ。それからすぐ、落ちる音がした」
――塔の内部に女性がいた可能性は。
「わしは誰も通しておらん」
――詰所を離れた時間はありますか。
「ない」
――本当に?
「……煙草を買いに、五分だけ外へ出た。だが、その間に誰かが入ったなら、足跡が残るはずだ。あの雨だ。石床には泥がつく」
――足跡は?
「灰島さんのものだけだった」
証言二
対象者:市観光課職員・倉橋 美緒(三十四歳)
聴取日:十月二十四日
――旧時計塔の管理担当ですね。
「はい。観光案内やイベント利用の窓口をしています。あの時計塔は市の象徴です。逆回転する時計として、写真を撮りに来る方も多いんです」
――灰島さんとは面識が?
「修理業者として何度か。無口な方でした。でも悪い人ではありません」
――事件当夜、塔へ行きましたか。
「いいえ」
――野々村さんは女性の声を聞いたと証言しています。
「それは……私ではありません」
――まだ誰とも言っていません。
「すみません。疑われると思って」
――なぜ疑われると?
「灰島さんと、少し揉めていましたから」
――内容は。
「市長が、時計を通常回転に戻す計画を進めていました。来年の市制百周年に合わせて“時を未来へ進める”という企画です。灰島さんは強く反対していました」
――なぜ反対を?
「彼は、あの時計が逆に回っている理由を知っている、と言っていました」
――理由とは?
「二十年前の火災です」
――旧市庁舎火災。
「はい。あの火災で、時計塔の最上階にいた少女が亡くなりました。名前は……灰島 千尋。灰島さんの妹さんです」
――灰島さんは、その件で時計を守ろうとしていた?
「たぶん。彼は言っていました。『あれは故障じゃない。あの子が最後に見た時刻へ戻ろうとしているんだ』と」
――最後に見た時刻?
「十一時五十九分。火災の日、時計はそこで止まっていたそうです」
――では、逆回転はその後?
「改修の翌日からです」
――あなたは当夜、どこにいましたか。
「自宅です。母と電話をしていました」
――通話記録は確認できますか。
「はい」
――午後十一時五十六分から五十九分まで、通話は途切れていますね。
「……停電がありました」
――あなたの自宅周辺では停電の報告はありません。
「それなら、電波が悪かったんです」
――スマートフォンは固定回線ではありません。では、その三分間、あなたはどこに?
「……塔の前にいました。でも入っていません。灰島さんに会うつもりでした。計画を止めるよう、市長を説得する材料があると言われて」
――会えましたか。
「いいえ。塔の扉は閉まっていて、上から鐘が一度鳴りました。その後、人が落ちる音を聞いて……怖くなって逃げました」
――女性の叫び声は?
「聞いていません」
――本当に?
「聞いていません。ただ……」
――ただ?
「落ちる直前、時計の針が見えました。逆回転していたはずなのに、その時だけ、普通に進んでいたんです」
証言三
対象者:市長・久瀬 俊也(五十八歳)
聴取日:十月二十五日
――通常回転への改修計画について確認します。
「観光政策の一環です。逆回転という奇抜さには頼りすぎました。市民には前を向いてほしい」
――灰島さんは反対していました。
「技師としてのこだわりでしょう」
――灰島さんは、市長に二十年前の火災の資料を要求していたようです。
「古い事故記録です。文化財課の書庫にあります」
――火災当時、あなたは旧市庁舎の職員でしたね。
「若手職員でした」
――火災の日、時計塔の施錠記録にあなたの署名があります。
「避難確認のためです」
――記録では午後十一時四十五分、あなたが塔の扉を施錠しています。その十四分後、少女が塔内で発見されました。
「混乱していた。誰かが中にいるとは知らなかった」
――灰島千尋さんは、なぜ塔に?
「知りません」
――灰島さんは、あなたが閉じ込めたと主張していたようです。
「馬鹿げている」
――当時、旧市庁舎の再開発に反対する市民団体がありました。灰島千尋さんの父親が中心人物でしたね。
「それが何の関係が?」
――火災は事故でしたか。
「公式記録では、電気系統のショートです」
――非公式には?
「調査員の立場で、市長を脅すつもりですか」
――事実確認です。
「灰島玲司は、妹の死に囚われていた。逆回転の時計に意味を見いだし、二十年も過去へ戻ろうとしていた。そんな男の言葉をどこまで信じるのです」
――事件当夜、あなたはどこに?
「市長公舎です」
――運転手は、あなたを午後十一時二十分に旧市庁舎裏で降ろしたと証言しています。
「……散歩です」
――雨の中を?
「眠れなかった」
――塔へは?
「入っていない」
――塔守の野々村さんは、十一時半過ぎに灰島さんが入ったと証言しています。あなたはその前から周辺にいた。灰島さんと会いましたか。
「会っていません」
――あなたの靴底から、時計塔内部の赤錆と同成分の粉末が検出されました。
「古い建物だ。外にも錆は落ちている」
――十一時五十九分に鐘が一度鳴りました。その音を聞きましたか。
「聞いていない」
――旧市庁舎裏にいたなら、聞こえないはずがありません。
「……雨音で消えた」
証言四
対象者:時計職人・槙野 総一(六十六歳)
聴取日:十月二十六日
――二十年前の改修に携わっていましたね。
「携わったどころか、あの逆回転の仕掛けを組んだのは私です」
――故障ではなかった?
「故障ではない。依頼されたんです。灰島玲司に」
――当時、彼は二十二歳です。依頼できる立場だったのですか。
「金はなかった。だが、設計図を持ってきた。驚くほど精密な図面でした。針を逆に動かすだけではなく、鐘の打数も通常とは異なる。長い周期を持つ機械でした」
――長い周期?
「時計は一日に二十四時間を示すだけではない。あの塔の機構は、二十年かけて、ある一瞬へ戻るよう組まれていた」
――十一時五十九分ですか。
「そう。火災の日の十一時五十九分。秒針がそこへ戻ると、塔の中に保管された記録箱が開く」
――記録箱?
「当時の火災調査資料です。灰島玲司は、妹が死ぬ直前に何かを塔へ隠したと信じていた」
――二十年かける必要が?
「普通に開ければいいと思うでしょう。だが、箱は時計の主軸と連動していた。無理に外せば中身が燃える仕掛けだった。子どもの工作ではない。誰が作ったのかは知らないが、千尋という少女は賢かったのかもしれません」
――なぜ逆回転なのですか。
「彼女が最後に見た針を、兄が迎えに行くためです。そう言っていました」
――事件当夜、灰島さんは箱を開ける予定だった?
「ええ。私にも連絡がありました。『今夜、二十年分の時間が戻る』と」
――あなたは塔へ?
「行っていません。心臓が悪いので」
――灰島さんは、誰が妹を閉じ込めたと考えていましたか。
「市長、当時の久瀬職員です。ただ、彼はもう一人の名前を出していた」
――誰です。
「野々村玄一。今の塔守です」
証言五
対象者:塔守・野々村 玄一(二回目)
聴取日:十月二十七日
――二十年前の火災時、あなたは旧市庁舎の警備員でしたね。
「……そうだ」
――最初の聴取で言いませんでした。
「言う必要がないと思った」
――灰島千尋さんを見ましたか。
「見た」
――どこで。
「塔の階段だ。小さなカメラを抱えていた。『上に行ってはいけない』と言ったが、聞かなかった」
――なぜ追わなかったのですか。
「火の手が回っていた」
――久瀬氏が扉を施錠した時、千尋さんが中にいると知っていましたか。
「……知っていた」
――なぜ知らせなかった。
「久瀬に言われたんだ。『あの子は見てはいけないものを見た。少し脅せば黙る』と。すぐ開けるつもりだった。だが火が早すぎた」
――あなたは塔守として、二十年間この場所に残りました。罪悪感ですか。
「違う。見張っていたんだ」
――何を。
「時計を。あの逆回転の時計を。灰島玲司が何を仕込んだか、久瀬は恐れていた。だからわしを置いた」
――事件当夜、あなたは煙草を買いに五分離れたと言いました。
「あれは嘘だ」
――実際は?
「久瀬を入れた」
――塔に?
「十一時二十七分だ。裏口から。久瀬は記録箱を壊すつもりだった。灰島より先に」
――その後、灰島さんが来た。
「そうだ。わしは止めなかった。止められなかった」
――女性の声を聞いたと言いました。
「あれも嘘ではない」
――誰の声ですか。
「千尋ちゃんだ」
――二十年前に亡くなっています。
「わかっている。だが聞こえた。『戻して』と」
――それは灰島さんの声を聞き違えたのでは?
「違う。灰島は叫ばなかった。あいつは落ちる時でさえ、声を出さなかった」
――あなたは落ちる瞬間を見た?
「見ていない。音だけだ」
――では、なぜ声を出さなかったと?
「……久瀬がそう言った」
証言六
対象者:倉橋 美緒(二回目)
聴取日:十月二十七日 深夜
――あなたは落下後、現場から逃げたと言いました。
「はい」
――しかし監視カメラには、あなたが落下の三分後に塔へ入る姿が映っています。
「……」
――何をしに戻ったのですか。
「灰島さんを助けようと」
――灰島さんは塔の外に落下しています。中へ入る理由にはなりません。
「鐘が鳴ったんです」
――一度だけでは?
「いいえ。落下の後、塔の中で小さく、何度も。まるで壊れたオルゴールみたいに」
――中で何を見ましたか。
「最上階の機械室に、久瀬市長がいました。手に血がついていた」
――灰島さんの血?
「わかりません。足元に古い金属の箱が開いていました。中にはフィルムと、紙片がありました」
――紙片の内容は。
「読めませんでした。市長が拾い上げて、暖炉のような修理炉に投げ込もうとしたので、私は止めました」
――止めた?
「もみ合いになりました。その時、時計の針が……普通に進み始めたんです。逆回転ではなく、未来へ。市長はそれを見て笑いました。『ようやく終わった』と」
――その後。
「どこからか声がしました。女の子の声で、『まだ』と」
――それが野々村さんの聞いた声?
「たぶん。でも、私が聞いたのは『戻して』ではありません。『まだ』です」
――意味は?
「わかりません。ただ、その直後、針がものすごい速さで逆回転しました。市長が機械に手を伸ばした瞬間、歯車に袖を巻き込まれて……」
――市長に外傷はありませんでした。
「巻き込まれたのは袖だけです。市長は倒れ、私は紙片を拾いました。でも怖くなって、持ち出せなかった。箱の中へ戻しました」
――紙片には何と。
「一行だけ。『わたしを閉じこめたのは、くぜさん。鍵を渡したのは、ののむらさん。兄さん、時計を戻さないで』」
――最後の一文は?
「『時計を戻さないで』です」
――灰島さんは逆に、戻そうとしていた。
「はい。だから、私は思ったんです。灰島さんは妹さんの願いを、ずっと聞き違えていたんじゃないかって」
証言七
対象者:市長・久瀬 俊也(二回目)
聴取日:十月二十八日
――記録箱の中身を確認しました。灰島千尋さんのメモと、火災前の映像フィルムがありました。あなたが塔の扉を施錠する様子が映っています。
「……」
――野々村さんが鍵を渡す姿も。
「子どもの悪戯だ」
――筆跡鑑定では、当時の千尋さんのノートと一致しました。
「私は殺すつもりなどなかった」
――しかし、閉じ込めた。
「少し怖がらせるだけだった。彼女は再開発計画の裏金資料を撮影していた。父親に渡すと言った。私はまだ若かった。上司に命じられただけだ」
――その上司は既に故人です。
「そうだ。死人は裁けない」
――あなたは事件当夜、灰島さんを突き落としましたか。
「突き落としていない」
――灰島さんの手袋から、あなたのコートの繊維が検出されています。
「彼が私を掴んだ。箱を奪い合った時に」
――灰島さんはなぜ落ちたのです。
「時計が動いたからだ」
――詳しく。
「彼は箱を開け、メモを読んだ。すると顔色が変わった。『戻してはいけなかった』と呟いた。そして機械へ駆け寄り、逆回転を止めようとした」
――妹の願いを知ったから?
「そうだ。彼は二十年かけて、妹の死の瞬間へ戻ろうとした。だが妹は戻ることを望んでいなかった。兄に過去へ囚われないでほしかったのだ」
――それで転落した?
「機械室の外側に点検用の狭い足場がある。彼はそこへ出た。針の主軸を外から固定しようとした。雨で滑った。私は手を伸ばした」
――助けようと?
「もちろんだ」
――あなたは最初、灰島さんに会っていないと嘘をつきました。
「信じてもらえないと思った」
――実際には、あなたが灰島さんを追い詰めたのでは?
「違う。あの時計が彼を落とした」
――時計のせいにするのですか。
「あなたも見ただろう、調査員。あの時計は今、止まっている。十一時五十九分でも、十二時でもない。十時二十一分で止まっている」
――十月二十一日、事件の日付ですね。
「灰島玲司が死んだ時刻ではない。千尋が塔に閉じ込められた時刻だ。二十年前の十月二十一日、午後十時二十一分。あの時計は、また別の過去へ戻ろうとしている」
補足記録
調査員・三崎
十月二十九日午前二時、旧時計塔機械室を再調査。
記録箱は主軸下部より発見。内部のメモ、八ミリフィルム、灰島玲司の手帳を回収した。
灰島玲司の手帳には、事件当日の記述がある。
逆回転は呪いではない。
千尋が残した鍵だ。
二十年かけて十一時五十九分へ戻れば、箱は開く。
真実が戻る。
そう信じてきた。だが、もし千尋が望んでいたのが復讐ではなく、停止だったなら。
もし時計を戻すこと自体が、あの子を何度も火の中へ連れ戻すことだったなら。兄さん、時計を戻さないで。
その声を、私は二十年間、聞き違えていたのか。
手帳の最後のページは雨に濡れ、滲んでいる。
ただし、判読可能な一文が残されていた。
針を進める。
千尋の時間を、ようやく明日に送る。
この記述から推測される経緯は以下である。
灰島玲司は、二十年前の火災の真相を暴くため、逆回転する時計機構を設計した。時計は二十年をかけ、灰島千尋が死亡した時刻である十一時五十九分へ到達し、記録箱を開く仕組みだった。
しかし箱の中のメモにより、千尋が兄に望んでいたのは過去への回帰ではなく、過去からの解放であったことが判明した。
灰島玲司は機構を停止させ、時計を通常回転へ戻そうとした。久瀬俊也は証拠隠滅を図り、野々村玄一はそれを黙認した。倉橋美緒は偶然現場に居合わせ、証拠の一部を確認した。
転落の直接原因については、久瀬による突き落としを示す決定的証拠はない。だが、灰島の手袋に久瀬のコート繊維、久瀬の袖口に灰島の血痕が付着していたことから、二人が足場上でもみ合った可能性は高い。
野々村の証言する「戻して」という声は、彼自身の罪悪感による記憶の歪曲と考えられる。一方、倉橋の聞いた「まだ」という声については、物理的証拠がない。
ただし、録音機材に不可解な音声が残っていた。
鐘の残響に混じって、少女とも成人女性とも判別できない声がある。
解析結果は不明瞭だが、最も近い語は、
「まだ、進めて」
であった。
最終聞き取り
対象者:旧時計塔
記録方法:機械音・鐘音・針位置の観察
聴取日:十月三十一日 午後十一時五十九分
午後十一時五十八分四十秒、停止していた長針が微動。
午後十一時五十九分、鐘が一度鳴る。
その直後、針は逆回転を始めた。
塔内にいた者は、私一人である。野々村は自宅謹慎中。久瀬は任意聴取後、入院。倉橋は証拠保全のため立入禁止を了承済み。
それでも背後で、誰かが階段を上る音がした。
一段、また一段。
私は振り返らなかった。振り返れば、そこにいるのが二十年前の少女なのか、二日前に死んだ兄なのか、あるいは罪を抱えた街そのものなのか、確かめなければならなくなる。
針は十一時五十八分へ戻り、五十七分へ戻り、五十六分へ戻った。
その時、機械室の床に置かれていた灰島玲司の手帳が開いた。
風はなかった。
滲んで読めなかったはずの最後の行に、新しい黒い文字が浮かんでいた。
兄さん、もういいよ。
直後、逆回転は止まった。
長針が震え、ためらうように一度だけ右へ進んだ。
午後十一時五十九分から、午前零時へ。
鐘が鳴った。
一度、二度、三度。
十二度目の鐘が鳴り終えた時、街の上に雨はなかった。
旧市庁舎時計塔は、その後も動き続けている。
今では普通の時計と同じように、未来へ向かって針を進めている。
ただし年に一度、十月二十一日の夜だけ、鐘は十二時に十三度鳴る。
市はそれを老朽化による誤作動と発表している。
だが私は知っている。
十二度は、新しい日を告げるため。
残る一度は、戻れなかった過去のために鳴るのだ。