第一回 四月七日 火曜日
明日は晴れ。朝のうち少し冷えますが、昼からは上着がいらないくらい。洗濯物がよく乾きます。傘は持たなくて大丈夫。
その配信が始まったのは、気象庁の発表とは別の、誰が運営しているのかわからないアカウントからだった。「あしたの天気」というだけの名前。フォロワーは三百人ほど。予報はいつも前日の夜九時きっかりに届く。
藤野久子はそれを、夫の四十九日を終えた翌週から読むようになった。
きっかけは些細なことだった。夫の信夫が亡くなる前、毎晩テレビの天気予報を見て「明日は傘いるぞ」「明日は冷えるから一枚多く着てけ」と、まるで久子に世話を焼くことだけが生きがいのように言っていた。その声が、家から消えた。
家は静かだった。久子はスマートフォンで「天気」と検索し、たまたまそのアカウントを見つけた。officialなものより言葉がやわらかい気がして、なんとなくフォローした。
「洗濯物がよく乾きます、か」
久子は声に出して読んでみた。誰もいない台所に、自分の声だけが響いた。それでも、久しぶりに誰かに話しかけられたような気がした。
翌日は本当に晴れた。久子は信夫のシャツを洗った。もう着る人はいないのに、洗って、干して、たたんで、しまった。陽の匂いがした。
第二回 五月十二日 火曜日
明日は雨。傘を忘れずに。午後から本降りになります。濡れて帰ると風邪をひきますから、コンビニのビニール傘でもいいので一本。誰かと相合傘になれたら、それはそれで悪くない一日です。
大学三年の高梨涼は、その日、ずっと迷っていた告白を、雨のせいでやめようとしていた。
晴れていたら言うつもりだった。けれど朝から空は重く、予報通り午後には降り出した。彼は同じ研究室の里村さんと、図書館の軒下で雨宿りをしていた。彼女は傘を持っていなかった。
「相合傘になれたら、それはそれで悪くない一日です」
涼は前の晩に読んだ予報文を思い出した。誰が書いたかもわからない、ただの占いみたいな天気予報。でも、なんだか背中を押された気がした。
「あの、よかったら、僕の傘」
差し出した傘は、コンビニで買ったビニール傘だった。彼女は少し笑って、「ありがとう」と入ってきた。肩が触れた。雨の音が、二人の沈黙をやさしく埋めた。
告白はまだできなかった。けれど、涼は思った。明日も雨でいい。
第三回 六月二十日 土曜日
明日は曇りのち晴れ。午前中は気分が晴れないかもしれませんが、昼を過ぎれば光が差します。空を見上げる癖のある人へ。きっと、見ていますよ。
久子は、その「空を見上げる癖のある人へ」という一文で、手が止まった。
信夫は、空を見上げる人だった。散歩の途中で立ち止まり、「今日の雲はいい形だ」とよく言った。久子はそのたびに「早く歩いてよ」と急かした。今思えば、もっと一緒に見上げればよかった。
偶然だ、と久子は思った。誰にでも当てはまるように書いてあるだけだ。星占いと同じ。けれど、心臓が妙に騒いだ。
翌日、久子は午前中ずっと気分が晴れなかった。理由はわからない。ただ胸の奥が重かった。けれど昼を過ぎた頃、雲の切れ間から光が差した。久子は思わずベランダに出て、空を見上げた。
「見てるの?」
返事はなかった。ただ、雲がゆっくりと流れていった。信夫が好きそうな、いい形の雲だった。
第四回 七月三日 金曜日
明日は晴れ。蒸し暑くなります。水分をこまめに。それから、無理をしている人。今日くらいは早く帰っていい日です。あなたの代わりは、いるようでいない。でも、あなたがいなくなったら困る人は、確かにいます。
会社員の岡田は、その晩、机に突っ伏していた。終電を逃すのが当たり前の毎日。胸の奥で何かが擦り切れていく音がしていた。
スマホを見たのは、ほんの気晴らしだった。天気予報。誰かに勧められてフォローしていた、変なアカウント。
「あなたの代わりは、いるようでいない。でも、あなたがいなくなったら困る人は、確かにいます」
岡田は、しばらく動けなかった。
去年の冬、同期がひとり、いなくなった。会社を辞めたのではない。岡田は、その同期と最後に交わした言葉を覚えていない。覚えていないことが、ずっと胸に刺さっていた。
「いなくなったら困る人は、確かにいます」
岡田はその夜、初めて定時で帰った。家に帰ると、妻が驚いた顔をした。子どもが「パパだ」と駆け寄ってきた。
その夜、岡田は子どもの寝顔を、長いこと見ていた。
第五回 八月十五日 土曜日
明日は晴れ、ところにより夕立。お盆ですね。帰る場所のある人は帰ってください。帰る場所のなくなった人は、心の中の縁側にでも座って、麦茶でも飲んでください。あの夏のように。久子、お前は冷たい麦茶が好きだったな。
久子は、その最後の一行を、何度も読み返した。
久子。
名前が、書いてあった。
手が震えた。スマホを落としそうになった。冷たい麦茶。信夫はいつも、久子のために麦茶を多めに作っておいてくれた。「お前は冷たいのが好きだろう」と。
これは偶然じゃない。偶然のはずがない。
久子はアカウントを調べた。運営者の情報はどこにもなかった。問い合わせ先もない。ただ、毎晩九時に予報が届くだけ。
「信夫さん?」
久子は震える声で、スマホに話しかけた。返事はない。当然だ。けれど、画面の中の言葉だけが、確かに久子の名を呼んでいた。
その夜、久子は冷たい麦茶を二つ作った。一つは仏壇に供えた。氷が、からんと鳴った。
翌日は晴れて、夕方に通り雨が降った。久子は縁側に座って、雨を見ていた。信夫が好きだった、雨の匂いがした。
第六回 九月一日 火曜日
明日は台風接近。風が強くなります。外には出ないこと。不要な外出は避けて。久子、お前は雨の日に限って買い物に行きたがる。今日は行くな。冷蔵庫の奥に、まだ缶詰があるだろう。
久子は、笑ってしまった。泣きながら、笑った。
冷蔵庫の奥には、確かに缶詰があった。信夫が「もしものときのため」と言って買い溜めていた、鯖の味噌煮の缶詰。久子は「こんなに買ってどうするの」と呆れていた。
「あんたが買い溜めるからでしょ」
久子はスマホに向かって言った。返事はない。けれど、確かに信夫がそこにいる気がした。
涼も、岡田も、他の三百人も、この予報を読んでいる。けれど、名前で呼ばれているのは久子だけだった。他の人には、ただの天気予報に見えているのだろう。やさしい言葉の混じった、少し風変わりな予報に。
久子は缶詰を開けて、一人の夕食にした。台風の風が、窓を揺らしていた。怖くなかった。信夫が「外に出るな」と言ってくれているのだから。
第七回 十月十日 土曜日
明日は快晴。空気が澄んで、遠くの山まで見えます。久子、覚えているか。三十年前の今日、俺たちは山に登った。お前は途中で泣き言を言って、頂上で「来てよかった」と言った。明日は、あの山に行ってみたらどうだ。一人でも、行けるよ。お前は強い人だから。
久子は、その朝、登山靴を引っ張り出した。
三十年前。信夫と二人で登った山。プロポーズされたのも、その頂上だった。久子は途中で何度も「もう無理」と座り込み、信夫が手を引いてくれた。頂上で見た景色を、久子は今でも覚えている。
「一人でも、行けるよ」
久子は、行くことにした。
電車を乗り継ぎ、登山口に立った。一人だった。けれど、不思議と寂しくなかった。一歩一歩、登った。膝が痛んだ。息が切れた。それでも登った。
頂上に着いたとき、空は本当に快晴だった。遠くの山まで、くっきりと見えた。久子は、息を整えながら、声に出して言った。
「来てよかった」
風が、髪を撫でた。信夫が、隣にいる気がした。手を引いてくれた、あの感触が、確かに蘇った。
久子は、長いこと、その景色を見ていた。
第八回 十一月二十三日 月曜日
明日は晴れ。今年いちばんの冷え込みになります。久子、暖かくしてな。それから、これが最後の予報になる。俺はもう、行かなくちゃいけない。お前の天気は、これからはお前自身が読むんだ。空を見上げて、自分で決めるんだ。傘がいるかどうか。上着がいるかどうか。大丈夫。お前は、ちゃんと一人で歩ける人だから。今まで、ありがとう。幸せだった。空のどこかから、ずっと見ているよ。
久子は、その予報を、何度も何度も読んだ。
涙が、止まらなかった。
最後の予報。お別れの言葉。
久子は、信夫がもう一度だけ、自分のために天気を教えてくれたのだと思った。あの世から、毎晩、久子のために。傘を、上着を、缶詰を、山を。生きているうちにできなかった世話を、死んでからずっと、焼き続けてくれていたのだ。
「ありがとう」
久子は、スマホを胸に抱いた。
「私も、幸せだったよ」
翌日は、本当に冷え込んだ。久子は厚手のコートを着て、外に出た。空を見上げた。雲ひとつない、青い空だった。
久子は、自分で決めた。今日は傘はいらない。上着は一枚多く。
そして、ゆっくりと歩き出した。一人で。けれど、空のどこかに、確かに見守ってくれる人がいることを、信じながら。
終章 十二月二十四日 木曜日
その後、「あしたの天気」のアカウントが更新されることはなかった。
けれど久子は、毎朝空を見上げる癖がついた。雲の形を見て、風の匂いを嗅いで、今日の天気を、自分で読むようになった。
時々、よく晴れた日の朝、いい形の雲が流れていく。
久子はそのたびに、小さく笑って、つぶやくのだった。
「今日は、傘はいらないわね」
返事はない。
でも、それでいい。
空は、いつでもそこにあるのだから。