母が死んだ夜、雨は降っていなかった。
けれど、土の匂いがした。濡れた畳の匂い。古い箪笥の引き出しを開けたときの、樟脳と血のまざったような匂い。
「目を閉じなさい」
誰かがそう言った。
叔母だったかもしれない。祖母だったかもしれない。あるいは、すでに死んでいる誰かだったかもしれない。
私は母の枕元に座っていた。蝋燭の火が揺れ、母の頬に、まだ生きているような影を落としていた。唇は薄く開き、何か言い残したまま固まっている。
「相続は、息をもらうことから始まるの」
そう教えられていた。
母の口元に顔を近づける。冷えた息があるはずもないのに、私は吸い込んだ。
その瞬間、喉の奥に苦いものが落ちてきた。
梅の種を噛み砕いたような味だった。
私は十四の春、川で弟を失くした。
あの子は赤い兵児帯を結んでいた。水面にそれがふわりと広がったとき、私は花が咲いたのだと思った。川下から誰かが叫んでいた。けれど私は、手を伸ばさなかった。
違う。
伸ばした。
伸ばしたが、届かなかった。
いや、届いていた。小さな手首を掴んだ。ぬるりと滑った。爪の間に泥が入った。
「あんたが殺したんでしょう」
母が言った。
母は言わなかった。母はその日、風邪で寝込んでいた。
でも、誰かが言った。
庭の柿の木が、夕方になると人の声で鳴った。実が落ちるたび、弟の頭が石に当たる音がした。
私はそれから川を見なかった。
けれど、孫は川を見るのが好きだった。
孫?
私はまだ子どもだったはずだ。
目覚めると、私の手は母の手ではなかった。
白い布団の上に置かれた手は、私よりも少し細く、指の関節が硬かった。爪の形が母に似ていた。
「大丈夫?」
叔母が覗き込んでいた。いや、叔母ではない。母の妹だから叔母でいいのだが、その顔を見た瞬間、私は「あき」と呼びそうになった。
あきはまだ七つで、よく私の後ろをついて歩いた。髪に椿油をつけすぎて、額がいつも光っていた。
「……叔母さん」
そう言い直すと、叔母は悲しそうに笑った。
「始まったのね」
始まった。
相続。
私の家では、財産より先に記憶を受け取る。
死者の最後の息を吸った者が、その人の記憶を継ぐ。写真や日記のようなものではない。匂い、痛み、後悔、恥、愛した人の声。忘れようとして忘れられなかったものほど鮮明に移る。
女から女へ、とは決まっていない。
けれど、この家ではたいてい母から娘へ渡ってきた。
祖母は母へ。母は私へ。
それ以前は誰が誰に渡したのか、家系図には名前だけが残っている。けれど名前を見れば、私はその人たちの泣き方を知っている。
知っているはずがないのに。
私は嫁いできた日、敷居をまたぐ前に逃げ出そうと思った。
山裾の家だった。瓦は黒く、門は重く、庭には背の高い樟の木があった。風が吹くたび、葉が擦れて、知らない女たちが噂しているように聞こえた。
夫は優しかった。
優しかったから、私は憎んだ。
彼は何も知らず、私の腹に手を当てて「男でも女でもいい」と言った。その掌の温かさが、ひどく残酷だった。
女ならば受け継ぐ。
男ならば逃げられる。
そう思った。
けれど産まれた子は女で、私に似て、泣き声だけが夫に似ていた。
私はその子を抱きながら、いつかこの子に私のすべてを飲ませるのだと知っていた。
愛おしかった。
だから恐ろしかった。
私は母の葬式のあいだ、何度も名前を間違えた。
住職に頭を下げながら、私は自分を「澄江」だと思った。受付で香典を受け取りながら、「千代」として指先を動かしていた。台所で湯呑みを洗うときには、母の癖で左手首を二度振った。
私の名前は美津だった。
美津。
そう紙に書いて、喪服の袖に隠した。
忘れないように。
けれど、名前というものは思ったより軽い。墨で書けば乾くし、紙は汗で湿る。火に近づければすぐ燃える。
夜、親戚たちが帰ったあと、私は母の部屋に入った。
箪笥の中には着物が五枚、古い通帳、黒い箱があった。箱には鍵がかかっていなかった。
中には、髪の束が入っていた。
一本ずつではない。何人もの髪をまとめたものだった。白髪、黒髪、赤茶けた髪。紙片に名前が書かれている。
澄江。
千代。
律。
照子。
そして、母の名前。
その下に、空白の紙片が一枚。
私はそれを見て、ああ、と息を漏らした。
私のための場所だ。
戦争が終わった日、私は空が憎かった。
あまりに青かったから。
町は焼け、井戸には灰が浮き、焼け跡にしゃがんだ女が、炭になった箪笥の取っ手を撫でていた。私は腹に子を抱えていた。まだ生まれていないその子が、腹の内側から蹴るたびに、なぜおまえだけが生きようとするのかと思った。
夫は帰らなかった。
帰らなかったのではない。帰ってきた。
夜更けに戸を叩く音がして、私は裸足で土間に降りた。戸を開けると誰もいない。けれど、軍靴の泥だけが敷居に残っていた。
私はそれを拭かなかった。
翌朝、母が言った。
「見たのね」
私は頷かなかった。
あの家では、死んだ者は息を渡す前に一度だけ戻る。戻って、いちばん渡したい記憶の匂いを置いていく。
夫の匂いは、焦げた麦だった。
私は父を知らない。
でも、父が母の髪を梳いた手つきを覚えている。
私は川で弟を失っていない。
でも、夢の中で何度も赤い兵児帯を掴む。
私は戦争を知らない。
でも、晴れた空を見ると吐き気がする日がある。
私は誰かを深く愛したことがない。
でも、夜中に自分の腹を撫でて、いない子の名を呼ぶことがある。
母の記憶が私に入ってから、私の中の部屋は増え続けた。襖を開けるたび、違う時代の畳があり、違う女が座っていた。
彼女たちは私に話しかけない。
ただ、こちらを見る。
私が何を選ぶのかを待っている。
叔母は相続しなかった人だった。
「私は逃げたの」
母の四十九日のあと、叔母は庭で煙草を吸いながら言った。
「おばあちゃんが死んだとき、お姉ちゃんが吸った。私は怖くて、廊下に隠れてた」
叔母の横顔は、母より若く見えた。記憶を持たない人間は老い方が違うのかもしれない。
「持たないほうが幸せ?」
私が聞くと、叔母は煙を吐いた。
「幸せよ。たぶんね」
「たぶん?」
「だって、持ってない記憶がないことを、どうやって確かめるの」
私は答えられなかった。
叔母は灰皿に煙草を押しつけた。
「でも、美津。相続は一人で終わらせられる」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何人かが身じろぎした。
終わらせる?
終わらせない。
終わらせて。
お願い。
その声は誰のものだったのか分からない。
黒い箱の底には、古い紙が一枚入っていた。
明治の日付がある。墨は褪せ、ところどころ読めなくなっていた。
「記憶葬の作法」
一、死者の息を受ける者は、死者の名を三度呼ぶこと。
一、受けた記憶は血に宿り、夢にて整う。
一、耐え難き場合、髪を切り、火にくべよ。
一、ただし火葬せし記憶は行き場を失い、家に残る。
最後の一文だけ、別の筆跡で書き足されていた。
「家に残るものは、やがて家を人にする」
意味が分からなかった。
けれど、その夜から家が軋むたび、誰かが寝返りを打ったように聞こえた。
私は髪を切った。
洗面所の鏡の前で、台所鋏を使った。ざくり、ざくりと音がして、黒い髪が白い洗面台に落ちた。
そのたび、誰かが悲鳴を上げた。
やめて。
切らないで。
軽くなる。
寒い。
私の髪じゃない。
私の髪だ。
鏡の中で、顔が少しずつ変わった。頬の丸みは母に、目の奥は祖母に、口元は知らない女に似た。
最後に残った髪を握り、私は庭へ出た。
樟の木の下で、火をつける。
髪は思ったより早く燃えた。嫌な匂いがして、煙がまっすぐ夜空へ昇った。
そのとき、家の奥で泣き声がした。
赤ん坊の声だった。
私は振り返った。
この家に赤ん坊はいない。
それでも声は続いた。台所から、仏間から、母の部屋から、床下から。
私は火を踏み消し、家に駆け込んだ。
あの子を産んではいけなかった。
いいえ、産んでよかった。
あの子がいたから生きられた。
あの子がいたから死ねなかった。
あの子に渡してしまった。
渡さなければ消えてしまった。
消えたかった。
覚えていてほしかった。
忘れられたかった。
私の中で声が重なった。
母の声。祖母の声。祖母の母の声。名前しか知らないはずの女の声。川で死んだ弟の濡れた息。戦地から戻らなかった男の焦げた麦の匂い。生まれる前に流れた子の小さな脈。
私は廊下に膝をついた。
床板が波のように揺れた。違う。揺れていたのは私の中だった。
「美津」
誰かが呼んだ。
「澄江」
誰かが呼び返した。
「千代」
「律」
「お母さん」
「姉さん」
「私」
「私」
「私」
そのたびに、私の身体のどこかが奪われた。右手は母になり、左目は祖母になり、喉は知らない女になった。
私は自分の名前を思い出そうとした。
袖に隠した紙を探す。喪服ではない。私は寝巻きを着ていた。紙などない。
美津。
そうだ。
美津。
でも、それは誰がつけた名だったか。
母?
父?
父はいない。
父はいる。焦げた麦の匂いがする。いや、それは曽祖母の夫だ。私の夫ではない。私は結婚していない。結婚していた。山裾の家に嫁いだ。嫁いできたのは誰だ。
私は立ち上がろうとして、畳に手をついた。
畳の目の間から、黒い髪が生えていた。
一本、二本ではない。無数の髪が畳を割って伸び、私の指に絡みついた。
「終わらせないで」
「終わらせて」
「私たちを殺さないで」
「私たちはもう死んでいる」
「この子だけは」
「この子にも」
「この子で最後に」
「この子から始めて」
私は耳を塞いだ。
けれど声は耳からではなく、血の内側から響いていた。
母が死ぬ直前、私の手を握った。
「ごめんね」
そう言った。
私はそのとき、母が私に謝っているのだと思った。
違った。
母の中の全員が、私に謝っていた。
そして同時に、私を待っていた。
夜明け前、叔母が来た。
私が電話したのか、叔母が予感したのか分からない。
叔母は玄関で立ち止まり、家の中を見回した。
「……増えたね」
その声は震えていた。
私は仏間に座っていた。髪は短く、不揃いで、手には黒い箱を抱えていた。
「火にくべたら、家に残るって」
私が言うと、叔母は頷いた。
「だから、お姉ちゃんは切らなかった」
「じゃあ、どうすればいいの」
叔母は答えなかった。
その沈黙の中で、私たちは同じことを理解していた。
記憶を終わらせるには、受け取った者が誰にも渡さず死ぬしかない。
でも、死んだ息はどこへ行くのか。
誰も吸わなければ。
家が吸う。
家が人になる。
私は襖の向こうを見た。
そこには誰もいない。
けれど、誰もいない空間が、こちらを見ていた。
それから私は家を出た。
叔母は止めなかった。
黒い箱は置いていった。髪の束も、家系図も、作法の紙も。仏壇に線香だけをあげ、母の位牌に向かって頭を下げた。
「持っていくの?」
叔母が聞いた。
私は自分の胸に手を当てた。
「もう、ここにあるから」
駅へ向かう坂道で、朝日が山の端から昇った。空は青かった。
吐き気がした。
同時に、きれいだと思った。
その二つの感情がぶつかり、火花のように胸の奥で散った。
私は歩いた。
一歩ごとに、誰かの足音が重なった。草履、下駄、軍靴、裸足、革靴。何世代もの足が、私の足の中で道を選ぼうとする。
右へ行け。
戻れ。
川へ。
町へ。
産院へ。
墓へ。
逃げて。
帰って。
私は立ち止まった。
道は二つに分かれていた。
どちらが私の道なのか、もう分からなかった。
だから私は、誰の記憶にもないほうへ曲がった。
背後で、家が小さく軋んだ。
それは泣き声にも、笑い声にも聞こえた。
私は振り返らなかった。
私たちは振り返らなかった。