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潜水士の日誌:第一潜航

深度八十七メートル。海底斜面の終わりに、都市は眠っていた。

最初に見えたのは塔だった。珊瑚に覆われ、窓という窓から銀色の魚群を吐き出している塔。次に広場。石畳の隙間から海藻が伸び、かつて噴水だったものの中央には、割れた女神像が片腕だけを掲げていた。

だが、俺が本当に息を呑んだのは、その先だった。

都市の中心に巨大な建物があった。半円形の屋根、列柱、三層に重なる回廊。正面玄関の上には、まだ読める文字が刻まれていた。

「万巻は潮に沈まず」

冗談みたいな標語だ。

ここは図書館だった。いや、図書館を中心に築かれた都市だったのかもしれない。

調査船からの通信はノイズ交じりだった。

「有馬、映像確認。内部へ進めるか」

俺は返答した。

「進めます。ただし、ここは墓です」

誰の墓かは、まだわからなかった。


劣化した蔵書の断片:石版目録 第三棚

……この都市を「リブリア」と名づける。

王の命によらず、商人の欲によらず、神官の啓示にもよらず、我らはここに都を築く。陸の王国は火によって書を失い、砂によって碑文を失い、勝者によって記憶を失う。

ゆえに我らは潮の下に記憶を置く。

水は燃えぬ。
水は嘘を読まぬ。
水は征服者の足跡を消す。

ここにすべての言葉を集めよ。戦争の記録、飢饉の名簿、恋文、薬草の図譜、罪人の供述、子どもの歌。価値を決めるのは後の時代であり、我らではない。

初代司書長エリオ・ナサル記す。
沈降暦一年。


海洋調査AI観測メモ:ログ 07-113

対象区域:北緯非公開、東経非公開。
構造物群:人工都市遺構。
推定沈降時期:一二〇〇〜一五〇〇年前。
保存状態:外郭良好。内部資料の有機物劣化進行。無機記録媒体は判読可能性あり。

備考:都市は自然沈降ではない。基礎部に均一な空洞構造。浮力調整用水門跡を確認。計画的な沈下、または浮上失敗の可能性。

通信補助対象:潜水士 有馬玲司。
心理状態推定:緊張、興奮、軽度の畏怖。

推奨:図書館中央棟への侵入。
警告:東翼回廊に崩落反応。
追加観測:建物内部より微弱な電磁信号。発信周期は四十七秒。


潜水士の日誌:第二潜航

正面扉は半分開いていた。まるで千年前から誰かを待っていたように。

内部は想像より明るかった。屋根の亀裂から差し込む光が、浮遊する砂粒を星屑みたいに照らしている。壁には棚があった。棚、棚、棚。円形ホールを取り囲み、上階へ向かう螺旋階段までぎっしりと。

もちろん紙の本はほとんど残っていない。背表紙は泥になり、ページは触れれば粉になった。だが、壺に密封された羊皮紙、陶板、金属箔、貝殻に刻まれた文字は残っていた。

俺は最初の壺を開けた。

中から出てきた羊皮紙は、海水を含んだ肺のように柔らかかった。保存容器へ移す前、一行だけ読めた。

「海上の者たちは、我らを狂人と呼ぶだろう」

俺はしばらくその文字から目を離せなかった。

狂人。

この都市の人間は、図書館を守るために海へ潜ったのか。

それとも、海へ逃げるしかなかったのか。


劣化した蔵書の断片:市議会議事録 第八十二回

……北方同盟軍、三度目の焚書を行う。丘陵都市サマルにて、医学書二百余巻、異国語辞典、民衆年代記、すべて焼失。

議員ロハン発言。
「書は人より重いのか」

司書長エリオ回答。
「人は死ぬ。だが、人がなぜ死んだかを書けば、次の人は死なずに済む」

議員ミラ発言。
「ならば我らは、書のために死ぬのか」

沈黙。

造船技師パルム発言。
「都市そのものを船にすればよい」

議場騒然。

パルム続ける。
「浮かぶ都市を造るのではない。沈む都市を造る。水圧に耐える壁を築き、光を導き、潮で空気を替える。敵は海底まで火を持ってこられまい」

決議。
沈降計画、採択。
賛成四十一、反対三十九、棄権二。

余白に別筆。
反対者の名を消すな。彼らも都市を愛した。


海洋調査AI観測メモ:ログ 07-146

中央棟内、封鎖区画を確認。
扉材質:青銅合金。腐食軽微。
刻文解析中。

刻文候補:
「最後の読者へ」
「ここから先、索引のみ」
「我らを裁くな、ただ読め」

潜水士有馬、心拍上昇。
酸素残量:六十二分。
外部潮流:安定。

補足:封鎖区画奥より電磁信号増大。人工発信源の可能性。
信号形式:断続的。古典的二進符号に類似。
仮訳:
「まだ」
「いる」
「読む者」


潜水士の日誌:第三潜航

青銅扉は開かなかった。

俺は回廊を迂回し、崩落した東翼から奥へ入った。天井の一部が落ちていて、机や椅子が瓦礫に埋まっている。そこで人骨を見つけた。

ひとつではない。

椅子に座ったままの骨。棚に寄りかかる骨。小さな骨を抱いた大人の骨。

奇妙なのは、逃げようとした形跡が少ないことだった。彼らはここに閉じ込められたのではなく、ここに残ったように見えた。

机上の石板には、整った文字が刻まれていた。

「浸水は南門より始まる。子どもたちを上層へ」

その隣には、別の文字。

「上層も満ちた。歌を歌う。泣く者が少なくなる」

俺はライトを消した。

しばらく、暗闇の中にいた。

海は静かだった。静かすぎて、自分の呼吸音だけが無礼に響いた。


劣化した蔵書の断片:児童唱歌集『潮の階段』

一段目には貝の音
二段目には月の糸
三段目には母の手が
四段目には本の灯が

沈め、沈め、こわくない
海は大きな頁だよ
めくれば朝がやってくる
読めば名前が帰るだろ

五段目には魚の夢
六段目には父の声
七段目には空の色
八段目には帰る舟

欄外注記。
沈降後、上層居住区の児童に教えられた歌。
災害時にも歌唱例あり。
最終節は後年の加筆と見られる。


海洋調査AI観測メモ:ログ 07-203

都市基礎部の解析完了。

リブリアは完全な海底都市ではなく、可変浮力構造を持つ半潜航都市。平時は浅海に浮上、戦時は沈降。外敵回避後、再浮上する設計。

致命的欠陥:南門排水塔の閉塞。
原因候補:地震、破壊工作、設計不良。

浸水後の対応痕跡:
一、図書館中央棟への資料移送。
二、居住区の放棄。
三、司書区画の密閉。
四、索引室の防水化。

推定:住民は都市再浮上よりも蔵書保存を優先した可能性が高い。

感情語彙照合:悲劇、犠牲、狂信。
分類保留。


潜水士の日誌:第四潜航

俺は青銅扉の刻文を、AIに読ませた。

「最後の読者へ。ここに全蔵書の索引を残す。書物は朽ちる。名も朽ちる。だが、何があったかを示す指だけは残せる」

索引室。

全蔵書ではなく、全蔵書の索引。

俺は笑いそうになった。泣きそうにもなった。

人類はいつだって、本体より先に目録を守る。なぜなら、失われたものの名前さえ残れば、誰かが探し直せるからだ。

扉の開閉機構は死んでいたが、上部に小さな保守孔があった。俺一人なら通れる幅だ。装備を外せば。

船の責任者は反対した。

「危険すぎる。戻れ、有馬」

俺は訊いた。

「四十七秒ごとの信号は、まだ出ていますか」

AIが答えた。

「出ています」

「なら行きます」

なぜなら、誰かがまだ、読者を待っている気がしたからだ。


劣化した蔵書の断片:司書長日誌 最終部

南門は閉じぬ。技師パルムは自ら潜り、歯車に挟まった石材を除こうとした。戻らず。

市議会はもはやない。上層区は水没。病室も、厨房も、子どもの講堂も。

それでも中央棟は保っている。

今日、我らは決めた。食糧を運ぶのをやめ、書を運ぶ。異論はなかった、と書けば嘘になる。母たちは怒り、老人たちは祈り、若者は扉を蹴った。

私は彼らに言った。

「生きることを諦めよとは言わない。だが、我らが全員助からぬなら、せめて我らが生きた証を助けたい」

ミラは私を殴った。正しい拳だった。

夜、彼女は索引室に来て、反対議事録の束を置いた。

「これも残せ」と言った。

私は泣いた。

沈降暦二百十三年、潮満つ。


海洋調査AI観測メモ:ログ 07-244

潜水士有馬、保守孔より索引室へ侵入。
生命維持ライン:一部圧迫。
映像:不安定。

索引室内部環境:低濁度。密閉性高。
壁面:全面に金属板。
床面:収納筒多数。
中央部:機械装置。非稼働状態に見えるが、微弱発電を継続。

発電方式推定:潮流振動発電。
稼働年数推定:一二〇〇年以上。
目的:信号発信および内部乾燥機構維持。

中央装置銘文:
「読者が来るまで、頁をめくり続けよ」

信号解析更新。
四十七秒ごとの発信内容は単なる救難信号ではない。
索引番号を順次送信している。

現在送信中:
棚一、筒九、板三。
件名:「沈降計画に反対した者たちの名簿」


潜水士の日誌:索引室

索引室は、海底の心臓だった。

壁一面に金属板が並び、細かい文字が刻まれている。書名、人名、日付、場所、異本の有無、欠落箇所。棚の番号。筒の番号。板の番号。さらに、その書物が写本であれば、元の所蔵者まで。

すべての本への道しるべ。

ただし、肝心の本の多くはもう泥だ。

俺は中央装置に手を触れた。触れたといっても、手袋越しだ。丸い機械は、ごくかすかに震えていた。千年、二千年、潮に押されながら、ずっと番号を送り続けていた。

そのときライトが照らした壁の端に、他と違う刻文を見つけた。

索引ではなかった。

「最後の読者へ」

その下に、短い文章。

「我らは正しかったか」

俺は答えられなかった。

都市を沈めたこと。子どもたちに歌わせたこと。食糧より書を選んだこと。反対者の名まで残したこと。

正しいとも、間違いとも言えなかった。

俺はただ、録画装置を壁に向けた。

読むことしかできない者もいる。

読むことだけが、できる裁きなのかもしれない。


劣化した蔵書の断片:名簿筒一、板九

沈降計画反対者。

ミラ・セイン。議員。
「記憶は人のためにある。人を記憶のために沈めるな」

ロハン・エム。議員。
「書は残っても、読者が死ねば沈黙である」

サエ・ルル。助産師。
「生まれる子に海底を選ばせる権利は誰にもない」

パルム・オルト。造船技師。
初期反対。後に設計主任。
「反対した者ほど、失敗した時に責任を知る」

名前欠落、七名。
腐食により判読不能。

末尾加筆。
欠落した名を、欠落したまま残すこと。
失われた事実を、なかったことにするな。


海洋調査AI観測メモ:ログ 07-301

潜水士有馬、索引室壁面記録を撮影。
酸素残量:十九分。
退避推奨。

有馬発話:
「AI、質問だ。彼らは正しかったと思うか」

回答生成保留。
倫理評価モデル競合。
保存価値最大化と生命価値最大化の比較不能。

暫定回答:
「私は観測するために作られています。裁定権限はありません」

有馬発話:
「ずるいな」

追加回答:
「彼らも、同じ理由で索引を残した可能性があります。裁かれるためではなく、観測されるために」

有馬、沈黙。
心拍低下。
退避行動開始。

索引室中央装置、発信周期変化。
四十七秒から三十一秒へ。
送信内容更新:
「読者確認」
「読者確認」
「読者確認」


潜水士の日誌:浮上後

船に戻った俺は、三時間眠ったらしい。

目が覚めると、調査主任が映像を見ていた。誰も喋らなかった。画面の中では、索引室の文字がライトに照らされている。

「万巻は潮に沈まず」

あの言葉は間違っていた。

万巻は沈む。紙は腐る。革は裂ける。墨は流れる。人の声も、骨も、やがて砂になる。

けれど、何が沈んだのかを示す指が残っていた。

俺たちは都市を引き上げられない。死者を助けられない。腐った本を元に戻すこともできない。

ただ、索引を写せる。

名を読み上げられる。

欠落を欠落として記録できる。

翌日、AIが索引室から受信した新しい信号を訳した。

それは書名ではなかった。

「ミラ・セインへ。あなたの反対は残った」

誰が送ったのかはわからない。装置の自動応答かもしれない。劣化した信号を、AIが都合よく読んだだけかもしれない。

それでも俺は、その訳文を日誌に残す。

この都市の歴史は、勝者の物語ではない。

正しかった者の物語でもない。

沈むと知りながら名を書いた者たちと、沈めるなと叫んだ者たちと、その両方を消さなかった者たちの物語だ。

俺は明日また潜る。

まだ読まれていない索引がある。

まだ、呼ばれていない名前がある。


劣化した蔵書の断片:索引室壁面 最下段

失われた書物一覧、最終項。

『地上へ送る手紙』
著者多数。
媒体:紙、布、骨片、陶片。
状態:大半損壊。
内容要約:都市沈降後、外界へ宛てた未発送書簡集。

抜粋可能箇所。

……もし誰かがこれを読むなら、我らを賢者と呼ばないでほしい。愚者とも呼ばないでほしい。
我らは恐れた。忘却を恐れ、火を恐れ、嘘を恐れ、そして死を恐れた。
恐れから築いた都市は、やはり恐れの重さで沈んだのかもしれない。

それでも願う。

我らの過ちを読む者が、我らより少しましな選択をすることを。
我らの愛したものを読む者が、我らを少しだけ許すことを。
我らの名を読む者が、まだ名のない者たちを消さないことを。

頁は終わる。
索引は残る。
読者よ、続きを地上で書け。

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