梅雨の終わりの、ひどく蒸し暑い夜だった。
三十五歳の坂口賢治(さかぐち けんじ)は、終電を逃し、濡れたアスファルトを踏みしめながら、普段は通らない路地裏を歩いていた。中堅の広告代理店で、クライアントと上司の板挟みになりながら、自分の名前が載ることもないパンフレットのレイアウトを修正し続ける日々。
「これで良かったのだろうか」
そんな、答えの出ない問いが、雨音に混ざって頭の中で反芻されていた。
ふと、視線を上げると、青くかすんだネオンサインが目に留まった。
『REPLAY』
古びた雑居ビルの半地下。錆びついた階段の先に、時代遅れのビデオレンタルショップがあった。ガラス扉の向こうには、黄色い蛍光灯に照らされた棚が見える。
吸い込まれるように、賢治は階段を下り、扉を押し開けた。
チリン、と乾いた鈴の音が響く。
店内は、驚くほど静かだった。棚に並んでいるのは、市販の映画パッケージではない。すべて同じ、黒いプラスチックのケースだ。背表紙には、手書きのラベルが貼られていた。
「1998年・夏・あのときの告白」「2005年・春・別の会社を選んだ場合」……。
賢治は目を見張った。奇妙なラベルばかりだ。
「いらっしゃいませ。お探しのものでも?」
カウンターの奥から、かすれた声がした。
白髪を後ろで緩く結んだ、眼鏡の老人が立っていた。仕立ての良い、しかし随分と着古したベストを着ている。
「あ、いや……ここは何のビデオショップですか? 映画のタイトルじゃなさそうですが」
賢治が尋ねると、老人は穏やかに微笑んだ。
「ここは『歴史のスペア』を貸し出す店です。お客さまが人生の分岐点で選ばなかった、もう一つの選択肢。それを歩んだ『並行世界のあなた』の人生を、一本の映画として編集したものです」
「並行世界の、俺……?」
賢治は失笑した。そんな馬鹿げたSFのような話があるはずがない。だが、老人の瞳はいたって真面目だった。
「信じるか信じないかは、ご覧になってから決めていただければ。会員登録は無料です。ただし、レンタル料として、あなたの『現在の記憶の、ほんの一部』をいただきます。鑑賞後、不要になった今日の昼食のメニューなど、些細な記憶をこちらで引き取らせていただきます」
賢治は、ただの悪ふざけか、あるいは新手のカウンセリングのようなものだろうと思った。だが、連日の残業で麻痺した脳は、その奇妙な誘いに抗えなかった。
「……もし、十八歳のあのとき、親の反対を押し切って美大に進学していたら、というのもありますか?」
「ええ、もちろん」
老人はカウンターの端末をいくつか叩くと、棚の奥から一本のビデオカセットを取り出してきた。黒いケースの背表紙には、『坂口賢治:19歳・美大進学ルート』と書かれている。
「再生デッキも一緒にお貸ししましょう。これは『巻き戻せない』テープですので、じっくりと、一度きりお楽しみください」
自宅に帰り、賢治は半信半疑で、借りてきた灰色のポータブルデッキをテレビに繋いだ。
ずっしりとした重みのあるカセットを挿入し、再生ボタンを押す。
ザー、という砂嵐の音の後、画面に映像が映し出された。
そこには、十九歳の自分がいた。
今の賢治よりも少し痩せていて、髪が長い。東京の、陽当たりの悪いアパートの一室で、油絵の具の匂いが漂ってきそうな散らかった部屋の中、キャンバスに向かって絵筆を握っている。
「本当に、俺だ……」
賢治は息を呑んだ。
画面の中の「賢治」は、飢えた獣のような目でキャンバスを睨みつけていた。それは、現実の賢治がとうの昔に失ってしまった、強烈な情熱の光だった。
映画は、テンポよく「もしもの人生」を映し出していく。
二十代前半、彼はバイトを掛け持ちしながら、狂ったように絵を描き続けた。食費を削って絵の具を買い、個展を開くものの、一枚も売れない日々。現実の賢治なら、胃が痛くなって逃げ出したくなるような極貧生活だ。だが、画面の中の彼は、貧しくとも、自分の手で世界を創造しているという確かな全能感に満ちていた。
やがて、二十八歳の秋。
彼の描いた一幅の抽象画が、著名なキュレーターの目に留まる。
そこからの展開は、まるでサクセスストーリーだった。ヨーロッパのギャラリーとの契約、初の個展の大盛行。画面の中の賢治は、少し仕立ての良いジャケットを着て、シャンパングラスを片手に、外国人の記者たちと流暢な英語(おそらく必死に勉強したのだろう)で談笑している。
三十五歳。現在の賢治と同じ年齢になった彼は、パリにアトリエを構えていた。窓からエッフェル塔が見える、広々とした美しい部屋だ。彼は、世界的に名を知られる画家になっていた。
賢治は、画面を凝視しながら、胸が締め付けられるような激しい嫉妬と、深い後悔に襲われた。
「やっぱり、あのとき進学していれば……俺は、こんな風になれたんだ。こんな素晴らしい人生が、あったはずなんだ」
自分の今の、薄暗いオフィスでエクセルの数値をいじるだけの人生が、どうしようもなく惨めで、無価値なものに思えて仕方がなかった。
だが、ビデオはそこで終わらなかった。
三十五歳の「画家・坂口賢治」は、アトリエで一人、キャンバスに向かっていた。
かつての飢えた目は消え、そこにあるのは、底なしの孤独と、インスピレーションの枯渇に苦しむ男の姿だった。
彼は、一枚の絵も描けずに、何時間も立ち尽くしていた。テーブルの上には、精神安定剤のボトルと、何本もの空のワインボトルが転がっている。
画面が切り替わり、彼がふと、手帳を開くシーンになった。
そこには、日本の実家の電話番号が書かれていた。彼は受話器を取り、ダイヤルを回そうとするが、途中で手を止めて、受話器を置く。
彼には、相談できる友人も、心を通わせるパートナーもいなかった。画家としての成功と引き換えに、彼は人間関係のすべてを削ぎ落として生きてきたのだ。家族とも、美大進学の際の諍い以来、十数年も音信不通のままだった。
画面の中の彼は、バルコニーに出て、パリの冷たい雨を見上げながら、ぽつりと呟いた。
「……何のために、描いてるんだっけな」
その表情は、ひどく虚ろで、今にも崩れ落ちそうだった。
そのとき、現実の賢治の脳裏に、ある記憶が蘇った。
現実の賢治には、妻がいる。
会社の同期で、仕事で行き詰まっていたときに、いつも屋上で缶コーヒーを奢ってくれた彼女だ。彼女と結婚し、決して広くはないが温かいマンションで、週末に二人でくだらない映画を観ながらビールを飲む時間が、賢治にとっての何よりの救いだった。
だが、この「画家の自分」の人生には、彼女は一度も登場しなかった。出会う接点すら、どこにもなかったのだから。
さらに、数年前に亡くなった父親のことも思い出した。
美大進学を反対され、一時は険悪になったが、就職が決まったとき、父は「これで安心した」と、照れくさそうに高級な万年筆を贈ってくれた。病床で最期を看取ったとき、父は賢治の手を握り、「お前は俺の自慢の息子だ」と言ってくれた。
もし、あのとき反対を押し切って東京へ飛び出し、連絡も絶っていたら、父はどんな思いで亡くなったのだろう。
画面の中で、孤独な画家は、ただ静かに暗い部屋で眠りについた。
そこで映像は途切れ、ザーという白い砂嵐に戻った。
賢治は、呆然とテレビ画面を見つめていた。
涙が、頬を伝ってこぼれ落ちた。それが、羨望の涙なのか、それとも安堵の涙なのか、自分でも分からなかった。
ただ、胸の奥にある重苦しい塊が、少しだけ軽くなっているのを感じた。
翌日の仕事帰り、賢治は再び、路地裏の『REPLAY』を訪れた。
店内に入ると、昨日と同じように、老人がカウンターで本を読んでいた。
「いかがでしたか?」
賢治は、ビデオケースとポータブルデッキをカウンターに置いた。
「……凄かったです。本当に、もう一つの人生を観ているようでした」
「満足していただけましたか?」
「はい。でも、少し怖くもなりました。あっちの俺は、確かに成功していました。俺が夢見たすべてを手に入れていた。でも……」
賢治は言葉を詰まらせ、それから小さく笑った。
「あっちの俺は、俺が持っている一番大切なものを、何一つ持っていなかった。あいつが手に入れたもののために、俺が今持っているものをすべて捨てる覚悟があるかと言われたら、絶対に嫌です」
老人は、眼鏡の奥の目を細め、深く頷いた。
「歴史に『スペア』は存在しますが、どちらが本物で、どちらが優れているということはありません。選択肢の数だけ、異なる痛みと、異なる光がある。それだけのことです」
「そうですね……。なんだか、自分の今の人生が、少しだけ愛おしくなりました」
「それは何よりです。では、レンタル料をいただきますね」
老人が、賢治の額にそっと指先を触れた。
一瞬、頭の中がすっと軽くなったような感覚があった。
「あの、俺は何の記憶を失ったんですか?」
賢治が尋ねると、老人は悪戯っぽく微笑んだ。
「さあ、それは私にも分かりません。ただ、あなたにとって『なくても困らない、どうでもいい記憶』であることは確かです」
店を出ると、昨日の雨が嘘のように、澄んだ夜空に星が輝いていた。
賢治は、スマートフォンの画面を開き、妻にメッセージを送った。
『今から帰る。何か買って帰るものはある?』
すぐに、可愛いペンギンのスタンプと共に、『アイス買ってきて!』と返信が届いた。
賢治は自然と笑みを浮かべ、駅への道を歩き出した。
もう、足取りは重くなかった。
彼の頭の片隅から、「昨日の昼食に食べた、少し伸びたコンビニのうどんの味」の記憶が、静かに消え去っていることなど、知る由もなかった。