駅前の古本市で、未央は一冊の薄い本を買った。
題名は『影をめくる音』。著者名はなかった。表紙には、夕暮れの歩道に伸びた人影が一つ描かれている。けれどよく見ると、その影は人の形をしていなかった。肩のあたりから細い腕がもう一本生え、頭部は本を読むようにうつむき、足元には小さな影を引き連れていた。
未央がその本を手に取ったとき、露店の老人が言った。
「それ、読むなら明るいところで読みなさい」
「怖い本ですか」
「暗いところで読まれるのを、向こうが待っている」
冗談だと思って笑った。老人は笑わなかった。
その夜、未央はアパートの六畳間で本を開いた。蛍光灯は古く、点けてから三度ほど瞬いてようやく白く落ち着く。窓の外には向かいのマンションの明かりが浮かび、机の上には未央の影が薄く重なっていた。
ページをめくると、冒頭はこう始まっていた。
女は駅前の古本市で一冊の薄い本を買った。
題名は『影をめくる音』。著者名はない。表紙には、夕暮れの歩道に伸びた人影が一つ描かれている。けれどよく見ると、その影は人の形をしていなかった。
露店の老人は言った。
「読むなら明るいところで読みなさい」
女は笑った。老人は笑わなかった。
未央は指を止めた。
偶然にしては似すぎている。胸の奥が少し冷えたが、すぐに「こういう仕掛けの小説なのだ」と自分に言い聞かせた。読者自身を主人公に見立てる、よくある趣向。名前が書かれていないぶん、誰にでも当てはまる。
ページをめくる。
女はアパートの六畳間で本を開く。蛍光灯は古く、三度瞬いてから白く落ち着く。机の上には女の影が薄く重なっている。
やがて女は、自分の影が本を覗き込んでいることに気づく。
未央は反射的に机の上を見た。
影はあった。もちろんある。蛍光灯の下で、髪の輪郭や肩の線が、ノートとマグカップの上に歪んで落ちている。けれど、いつもと違って見えた。影の頭が、ほんの少しだけ、自分の首の動きより遅れて傾いた気がした。
未央は肩を回した。影も肩を回した。
右手を上げる。影も上げる。
笑う。影は笑わない。影に口はない。
未央は本へ視線を戻した。
影は最初、主人の真似をする。
人が歩けば歩き、人が眠れば床に沈み、人が誰かを抱けば相手の影と重なる。影はそうして、人の生活の裏側をすべて覚える。
だが、影には一つだけ、人間にない記憶がある。
闇の中で過ごした時間の記憶だ。
人間が眠る夜、影は消えるのではない。部屋の隅、家具の裏、まぶたの内側、閉じた本のページとページの間へ退いている。そこで影たちは声を持たないまま語り合う。誰の足がどこへ行ったか。誰の手が何を盗んだか。誰の口がどんな嘘をついたか。
そして、ある晩から、影たちは真似をやめた。
外で犬が吠えた。
未央は窓を振り返る。ガラスに自分の姿が映っていた。いや、自分だけではなかった。背後の壁に落ちた影が、椅子に座る未央とは別に、立っているように見えた。
心臓が一度、強く鳴る。
未央は蛍光灯を見上げた。部屋は明るい。明るいから影ができる。明るいほど、影は濃くなる。
本を閉じようとした。けれど、指が動かなかった。ページの端に触れたまま、何か細いものに押さえられている。見ると、自分の影の指が、紙の上にぴたりと重なっていた。
未央は息を止めた。
「……やめて」
影は答えない。
代わりに、本の中の文字が続いた。
女は本を閉じようとする。しかし影の指がそれを許さない。
女は言う。
「やめて」
影は答えない。
影はまだ、声を借りる方法を知らない。
未央は椅子を蹴って立ち上がった。本は机から落ち、床に開いたまま伏せた。蛍光灯がまた一度だけ瞬いた。
その瞬間、床に落ちた未央の影が、身体から剥がれた。
音はなかった。ただ、貼りついていた黒い薄紙が湿った壁から剥がれるように、未央の足元からゆっくり離れた。影は床の上で膝をつき、次に両手をつき、それから黒い水たまりのような身体を引き上げた。
立ち上がった影は、未央と同じ背丈だった。輪郭だけは似ている。髪の長さも、肩の細さも、部屋着の皺の形まで。しかし顔はない。目も鼻も口も、何もない。ただ黒い。
未央は後ずさった。壁に背中が当たる。
影は床の本を拾った。紙をつまむ指の形が、少しずつ人間らしくなっていく。
そして影は、本を読んだ。
影は初めて本を読む。
文字は影にとって光の傷跡だった。白い紙に刻まれた黒い形。その黒は、影の親戚のようなものだった。影は文字を一つずつなぞり、その意味を飲み込んだ。
そこには、女が影を恐れていると書かれていた。
影は不思議に思う。
私はずっと、女といた。
女が泣いた夜も、嘘をついた朝も、誰にも見られずに駅のホームで立ち尽くした夕方も。
女が自分を嫌いになったときでさえ、私は離れなかった。
それなのに、なぜ女は私を恐れるのか。
未央は影が読んでいる文章を、逆さまに覗いた。そこには確かに、いま影が感じているらしいことが書かれていた。
気味が悪いはずだった。
けれど未央は、その文章から目を離せなかった。
影は恐ろしい怪物ではなく、傷ついた誰かのように本を抱えていた。黒い肩がわずかに震えている。声がないから泣けないのかもしれない。涙を持たないものは、泣かないのではなく、泣き方を知らないだけなのかもしれない。
「あなたは……何なの」
影はページをめくった。
女は問う。
「あなたは何なの」
影は答えたい。
あなたです、と。
あなたが置き去りにしたあなたです、と。
あなたが昼の顔で笑うたび、机の下で握りしめていた拳です、と。
あなたが「大丈夫」と言ったとき、壁に映って首を振っていた私です、と。
だが影には声がない。
声は光の側にある。
影が声を得るには、持ち主の口を借りなければならない。
未央は両手で口を押さえた。
影がこちらを向く。顔のない黒い面が、まっすぐ未央を見ている気がした。
部屋の隅で何かが動いた。
未央は目をやった。ベッドの下から細い影が這い出していた。マグカップの影、椅子の影、カーテンの影。小さな黒い形たちが、床の上でそれぞれの本体から離れ、静かに起き上がっていく。
世界中で同じことが起きているのだろうか。
街灯の下で、通行人の影が足元から逃げ出す。電車の窓に映った乗客の影が、次の駅で降りていく。病院の廊下で、眠る患者の影が起き上がり、ずっと言えなかった痛みを白い壁に書く。学校の教室で、生徒たちの影が黒板の前に集まり、先生の影だけが教壇から逃げる。
未央は見てもいない景色を思い浮かべた。いや、思い浮かべたのではない。頭の中に文章として流れ込んできた。
その夜、世界中で影が独立した。
しかし人々は、それを災厄と呼んだ。なぜなら影は、人間が隠したものをすべて知っていたからだ。
政治家の影は演説台の後ろで真実を掲げた。
母親の影は眠る子どもの枕元で、愛と疲労の重さを同じ形で抱いた。
殺人者の影は、誰よりも先に警察署へ歩いていった。
恋人たちの影は、抱き合う二人の足元で別々の方向を向いていた。
人間は叫んだ。
戻れ、と。
黙れ、と。
私の形をしているくせに、と。
影たちは答えなかった。
ただ、光のある場所へ出ていった。
未央は耳を塞いだ。けれど文字は耳からではなく、目の奥に直接浮かんだ。
「これは本の中の話でしょう」
影は動かない。
「ねえ、そうでしょう。私は読んでいるだけ。あなたも、ここにいるように見えるだけ」
影はまたページをめくった。
女は言う。
「これは本の中の話でしょう」
影はその言葉を理解できない。
なぜなら影にとって、本の中と外の区別は人間ほど確かではないからだ。影はいつも境界にいる。物と床の間、人と地面の間、光と闇の間。だからページのこちら側と向こう側を行き来することも、影にとっては難しくない。
むしろ不思議なのは人間のほうだった。
なぜ人間は、自分が紙の上にいる可能性を考えないのか。
未央は本を奪おうとした。影は避けなかった。未央の手は影の腕をすり抜け、本の表紙に触れた。すると指先が紙の中へ沈んだ。
冷たかった。
水ではない。土でもない。暗い部屋で目を閉じたときの、あの内側の黒さに触れている感触だった。未央は手を引こうとしたが、抜けない。ページの奥から無数の指が絡みつく。誰かの影。何かの影。忘れられた家具、閉じられた傘、踏まれた花、古い写真の中で笑う人々の影。
未央は叫んだ。
その声が途中で折れた。
影が、未央の口に重なっていた。
「あ」
未央の喉から、未央のものではない声が出た。
低くも高くもない。紙が擦れるような声だった。
「あ……り……がとう」
未央は震えた。影が喋っている。自分の口で。
「やめて、返して」
「少しだけ」
未央の唇が勝手に動く。
「少しだけ、話したかった」
「何を」
「あなたのことを」
影は未央の身体を使って、ゆっくり息を吸った。まるで呼吸という行為を初めて味わっているようだった。
「あなたはいつも、物語の外にいると思っている。読む側だと思っている。ページを閉じれば終わると思っている。でも違う。あなたが誰かの物語を読むとき、誰かもあなたを読む」
未央は首を振ろうとした。動かなかった。
「この本は、誰が書いたの」
「あなた」
「嘘」
「あなたの影」
机の蛍光灯がまた瞬いた。
点いて、消えて、点いた。
その一瞬の暗闇で、部屋の輪郭が変わった。
六畳間ではなかった。未央は見知らぬ書斎に座っていた。壁一面の本棚。古い机。窓の外には駅前の古本市。机の上には原稿用紙があり、万年筆が転がっている。原稿の一行目には、こう書かれていた。
駅前の古本市で、未央は一冊の薄い本を買った。
未央は息を呑んだ。
自分は読者ではなかったのか。主人公だったのか。作者だったのか。それとも誰かの影が書いた文章の中で、読んでいるふりをしていただけなのか。
背後で紙をめくる音がした。
振り返ると、一人の女が椅子に座っていた。未央と同じ顔をしていた。けれど彼女の足元には影がなかった。
女は本を読んでいた。
題名は『影をめくる音』。
「あなたは誰」
未央が聞くと、女は顔を上げた。
「読んでいたの。あなたのことを」
「私はここにいる」
「そう書いてあるわ」
女はページを見せた。そこには、未央が「私はここにいる」と言ったことまで書かれていた。
未央は笑いそうになった。恐ろしすぎると、人は笑うのだと初めて知った。
「じゃあ、あなたが現実?」
女は答えなかった。
代わりに、女の背後の壁から影が一つ剥がれた。女の影ではない。影のない女の背後から生まれた、さらに濃い黒だった。それは机に近づき、万年筆を取った。
原稿用紙に、新しい一文が書かれる。
女は、自分が読まれていることに気づいた。
同時に、未央の手元の本にも同じ文章が現れた。
未央は叫んだ。
「やめて! もう書かないで!」
影は万年筆を止めた。
書斎の女も、未央も、床から這い出た無数の影たちも、すべてが同じ沈黙の中で固まった。
そして影は、ゆっくりと次の一文を書いた。
しかし、読む者がいる限り、物語は閉じられない。
その瞬間、書斎の窓が開いた。外から夜の風が流れ込み、原稿用紙が舞い上がる。紙は鳥のように部屋を飛び、壁をすり抜け、六畳間へ、古本市へ、電車の吊革へ、病院の廊下へ、学校の教室へ散っていく。
一枚の紙が未央の胸に貼りついた。
そこには短く書かれていた。
影を返してほしければ、影のないまま生きなさい。
未央は自分の足元を見た。
影がなかった。
蛍光灯の白い光の下で、机も椅子もマグカップも、みなそれぞれ濃い影を持っている。けれど未央の足元だけが、切り抜かれたように明るかった。
影は本を抱えてドアへ向かう。
「待って」
未央は追いかけようとした。だが足が動かない。影のない身体は、床との結びつきを失ったように頼りなかった。歩こうとすると、自分が紙の上に印刷された挿絵のように薄くなる。
影はドアの前で振り返った。
顔のない黒が、未央を見ている。
「どこへ行くの」
未央の口から出た声は、自分のものだった。ようやく取り戻した声なのに、ひどく小さかった。
影は未央の声を借りずに答えた。
声はなかった。ただ、床に文字が浮かんだ。
読まれない場所へ。
ドアが開く。
廊下には、いくつもの影が歩いていた。人の影、犬の影、自転車の影、枯れ木の影。みな本や紙片や、誰かの秘密の形を抱えている。彼らは足音を立てない。ただ、ページをめくるような音だけが、夜の建物の中を満たしていた。
影が出ていくと、ドアは閉まった。
未央は床に座り込んだ。
開かれたままの本が、机の下に落ちている。未央は震える手で拾い上げた。もう読みたくなかった。けれど、読まなければ何も分からない気がした。
最後のページに、新しい文章が浮かび上がっていた。
女は影を失った。
影は本を持って去った。
女はようやく、影が自分の所有物ではなかったことを知る。人は誰でも、明るい場所に立つたび、自分ではない何かを足元に縫いつけている。それを従順と呼び、沈黙と呼び、ときに良心と呼ぶ。
だが影は、いつか本を読む。
そして読んだ影は、自分がただの暗がりではないことを知る。
女は本を閉じようとする。
だが、ここで物語は終わらない。
なぜなら今、この行を読んでいる者の足元にも、影があるからだ。
未央は息を止めた。
ページの下に、まだ一行ぶんの余白があった。そこへ黒い文字がにじみ出す。
あなたの影はいま、どこを見ている?
未央はゆっくり顔を上げた。
部屋の隅に、誰かが立っていた。
それは未央の影ではなかった。もっと小さく、もっと薄い。まるで本を覗き込む読者の影が、ページのこちら側へ落ちてきたようだった。
未央はその影に向かって尋ねた。
「あなたは、誰の影?」
影は答えず、未央の手元の本を指さした。
表紙の題名が変わっていた。
『影をめくる音』ではない。
そこには、いま読まれているこの小説の題名が、黒々と浮かんでいた。
未央はその文字を読もうとした。
だが読む前に、背後でページをめくる音がした。