第一の声 ― 夜更けの男
あの夜、街は相変わらず眠らなかった。信号は緑のまま点滅し、地下鉄は終電後も空の車両を走らせ続けていた。私は窓辺でコーヒーを飲みながら、向かいの部屋の女を眺めていた。彼女は毎晩同じ時刻にカーテンを開け、ベランダに立って空を見上げる。だが今夜は違った。彼女の部屋に男が二人入った。片方は私の知っている顔だ。もう片方は見知らぬ影。女は叫んだような声を上げ、すぐに沈黙した。私は証拠を残すためにメモを取った。翌朝、警察が来たとき、私は正直に話した。あの二人の男が女を連れ去った、と。
第二の声 ― 管理人の記録
私は毎晩、ビルを巡回する。眠らない街では、管理人の仕事は夜が本番だ。あの夜、十四階の部屋から異音がしたので鍵を開けた。中には女が一人、倒れていた。血はなかった。彼女は「誰か来ないで」と繰り返していた。私は救急車を呼ぼうとしたが、彼女は首を横に振った。「あれは夢よ」と。翌朝、彼女の部屋は空だった。家具も荷物もなくなっていた。私は日誌にこう記した。「十四階の住人は退去した。理由は不明」。
第三の声 ― 女の断片
私は眠らない。眠らない街に住む以上、それは当然のことだ。あの夜、私は確かに部屋にいた。誰かがノックしたのでドアを開けた。そこに立っていたのは、私自身だった。同じ顔、同じ服、同じ疲れた目。もう一人の私は微笑んで言った。「あなたはもう眠った方がいい」と。私はドアを閉めた。翌朝、鏡に映った私の顔は少しだけ違っていた。目元が少しだけ、誰かのもののように見えた。
三つの声は互いに重なり、食い違い、溶けていく。夜更けの男が目撃した男の一人は、管理人の日誌に登場しない。管理人が見た女の姿は、女自身の記憶には存在しない。女が鏡に映したもう一人の自分は、夜更けの男のメモには一切書かれていない。
街は今も眠らない。信号は緑のまま、地下鉄は空の車両を走らせ続けている。誰かの声が、誰かの嘘が、誰かの真実が、夜ごとに積み重なっていく。読む者が信じるべきは、どの断片だろうか。