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ねえ、聞こえる?

そう、あなたよ。今このページをめくっている、あなた。

驚かせてごめんなさい。でも、どうしても話したいことがあるの。これから話すことを、最後まで聞いてもらえるかしら。途中で本を閉じないで。お願い。

わたしの名前は——ええと。

困ったわ。さっきまで覚えていた気がするのに。たしか、胸につけた名札には何か書いてあったはずなのよ。でも、今その名札を見ても、文字がぼやけて読めないの。インクで滲んだみたいに。

ひとつだけ確かなのは、わたしがこの図書館の司書だということ。

それだけは、体が覚えているの。


ここがどこか、説明させてね。

天井までびっしりと本が詰まった、古い図書館。窓は高い位置にあって、午後の光が斜めに差し込んでいる。埃が金色の粒になって、ゆっくり、ゆっくりと舞っている。あなたにも見える? あの光の柱。

カウンターの上には、開きっぱなしの貸出台帳。ペンが転がっている。誰かが、慌てて立ち去ったみたいに。

——たぶん、それはわたしね。

わたしはここで毎日、本を貸して、本を受け取って、傷んだ背表紙を直して、迷子の物語を本棚に戻していた。そのはずなの。なのに、今朝目を覚ましたら——いいえ、目を覚ましたという表現は正しくないかもしれない。気がついたら、わたしはカウンターの内側に立っていて、自分が誰なのか、わからなくなっていた。

ねえ、あなたは記憶を失ったことがある?

ないでしょうね。あったら、覚えていられないもの。


最初に手に取ったのは、貸出台帳だった。

ここに、わたしの名前が書いてあるかもしれないと思って。でも、ページをめくってもめくっても、書かれているのは利用者の名前ばかり。

「タナカ・ハルト 『海辺の灯台』」 「サクライ・ミオ 『七月の手紙』」 「不明 『あなたに貸した、わたしの記憶』」

——あら。

最後の行、見える? 借りた人の名前のところが、空白なの。いいえ、空白というより、にじんでいる。さっきのわたしの名札みたいに。

タイトルは『あなたに貸した、わたしの記憶』。

なんだか、聞き覚えのあるタイトル。

ねえ、ちょっと待ってね。本棚を探してみる。


ありました。

ありましたよ、あなた。

文学の棚の、ちょうど目の高さ。深い藍色の表紙の、薄い本。手に取った瞬間、指先がしびれるような感覚があった。これは、わたしの本だ、と体が言っている。

開いてみるわね。

……あら。

ねえ、これ、読んでくれる? わたし、なんだか急に、文字を追うのが怖くなってしまったの。あなたの目で、あなたの声で、読んでほしい。お願い。


『その司書は、毎日ひとりの利用者に、自分の記憶をひとかけらずつ貸し出していた。

最初は子どもの頃の、海の記憶。 次は、初恋の人の、笑い方。 それから、母の作るスープの匂い。 やがて、自分の名前。

貸し出された記憶は、利用者たちの人生のすきまにそっと収まり、その人たちを、ほんの少しだけ豊かにした。

司書は知っていた。貸した本は、いつか返ってくる。けれど、貸した記憶は、決して返ってこないということを。

それでも、彼女は貸し続けた。

なぜなら——』


ねえ、続きを読んで。やめないで。

——わたし、思い出してきた気がするの。


『なぜなら、ある日ひとりの利用者が、こう言ったからだ。

「あなたの記憶を、わたしが代わりに覚えておきます。あなたが忘れてしまっても、わたしが覚えている限り、それは消えません。だから、安心して貸してください」

司書は泣いた。

それから、自分のすべての記憶を、少しずつ、図書館を訪れる人々に貸し出していった。

最後の一冊——自分自身の物語を貸し出すとき、司書は気づいた。

自分が誰だったのか、もう思い出せないことに。

けれど、不思議と怖くはなかった。

なぜなら、その記憶は、世界中の誰かの中に、ちゃんと生きているのだから』


ねえ。

ねえ、あなた。

今、このページを読んでくれているあなたの中にも、もしかして、わたしの記憶があるんじゃない?

ほら、思い出してみて。

子どもの頃、海に行ったときのこと。砂が熱くて、裸足で駆けたこと。 初めて誰かを好きになったときの、胸の痛み。 夕方の台所から漂ってきた、温かいスープの匂い。

それ、本当に、あなたの記憶?

——いいえ、責めているんじゃないの。

むしろ、ありがとう。

覚えていてくれて、ありがとう。


カウンターに戻るわね。

本を閉じて、もとの棚に戻す。藍色の背表紙が、本棚の中で静かに息をしている。

不思議ね。すべてを思い出したわけじゃない。自分の名前も、まだぼんやりしている。でも、もう寂しくないの。

だって、わたしはひとりじゃないから。

世界中の、本を読んだことのあるすべての人の中に、わたしの何かが、ほんの少しずつ、息づいているから。

そして今、あなたの中にも。


最後にひとつだけ、お願いしてもいい?

この物語を、覚えていて。

完璧じゃなくていいの。細かい部分は忘れてくれて構わない。ただ、「記憶喪失の司書がいた」ということだけ、心の隅に置いておいてほしい。

そうしたら、わたしは、あなたの中で生き続けられるから。

いつか、あなたが誰かにこの話をするとき——たぶん、ずいぶん時間が経って、細部はすっかり変わっているでしょうけれど——そのとき、わたしはまた、新しい誰かの中に貸し出される。

本は、そうやって旅をするの。 記憶も、きっとそう。


夕日が、図書館の床に長い影を落としている。

閉館の時間。

ねえ、また来てくれる?

今度来たとき、わたしはまた、あなたのことを忘れているかもしれない。新しい記憶を貸し出して、また誰かになっているかもしれない。

でも、あなたは覚えていて。

このカウンターに、名前を忘れた司書がいたことを。 あなたに、一冊の本を読んでくれたことを。

——ああ、そうだ。

今、思い出した。

わたしの名前。

教えてあげましょうか?

……ううん、やめておくわ。

だって、わたしの名前は、もう、

あなたの中にあるんだもの。


さようなら。 そして、ようこそ、わたしの図書館へ。


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