第一章 依頼
雨が降っている。
君は窓の外を見ている。新宿の高層ビル群の輪郭が、霧雨の中で滲んで見える。2047年の春。記憶移植が合法化されてから、もう七年が経つ。
君の名前は——いや、まだそれは言わないでおこう。なぜなら、この物語の中で、君が「自分が誰なのか」を問い続けることになるからだ。
ひとまず、君は探偵だ。記憶移植技術を専門に扱う、数少ない私立探偵の一人。事務所の名前は『マネモシュネ探偵事務所』。ギリシャ神話の記憶の女神から取った名前を、君は今でも少し気に入っている。
ドアがノックされる。
「どうぞ」
入ってきたのは、黒いコートを着た中年の女性だった。目の下に深い隈がある。彼女は椅子に座る前に、こう言った。
「娘を殺した犯人を、見つけてほしいんです」
君は静かにうなずく。机の上のホログラム端末を起動し、依頼内容を記録し始める。
「娘さんのお名前は」
「相沢ユイ。二十四歳でした。三週間前、自宅マンションで首を絞められて——」
彼女の声が震える。君はティッシュの箱を差し出す。これは何度も繰り返してきた所作だ。けれど、何度繰り返しても慣れることはない。
「警察は、もう動いていないんですね」
「証拠不十分で、捜査は縮小されています。でも私は知っているんです。娘は何かを抱えていた。誰かを恐れていた」
彼女はバッグから小さな金属製のキューブを取り出した。一辺が三センチほどの、青く光る記憶チップ。
「これは……娘さんの」
「死亡直前までの記憶バックアップです。事故に備えて、娘は毎週バックアップを取っていました。最後の記録は、殺される六時間前」
君はそのキューブをじっと見つめる。
記憶移植——他人の記憶を自分の脳に一時的にインストールする技術。被害者の最期の記憶を辿ることで、未解決事件を解く。それが君の仕事だ。けれど、移植には常にリスクがある。他人の感情、他人の恐怖、他人の愛。それらが、君自身の輪郭を蝕んでいく。
依頼料の見積もりを伝えながら、君はある違和感を覚える。
この女性の顔を、どこかで見たことがある気がする。けれど、いつ、どこで?
「お引き受けします」
君はそう答えてしまった。
第二章 移植
クリニックの白い天井を見上げている。
医師がこめかみに電極を貼り付けながら、いつもの注意事項を読み上げる。
「移植可能時間は最大七十二時間です。それを超えると、他人の記憶と自己の記憶の境界が曖昧になり、人格融合のリスクが高まります。違和感を覚えたら、即座に抑制剤を服用してください」
君はうなずく。これで二十七回目だ。慣れている、はずだ。
「それでは、相沢ユイ氏の記憶を注入します。三、二、一——」
世界が、揺れる。
——鏡を見ている。
鏡の中には、若い女性。栗色の長い髪、二重の大きな瞳。これがユイだ。これが、私だ。
いや、違う。私は探偵だ。これはユイの記憶だ。
落ち着け。深呼吸しろ。
ユイは口紅を引いている。誰かと会う約束があるらしい。鏡の中の自分に、彼女は——いや、「私」は、小さく微笑む。けれどその微笑みの奥に、確かに恐怖が滲んでいる。
スマートフォンが鳴る。
「もしもし、ユイです。……はい、わかってます。今夜、必ず持っていきます」
電話の声は男のものだった。低く、平坦な声。けれど聞き覚えがある——いや、ユイにとって聞き覚えがあるのか、それとも「私」にとって?
ユイは部屋を出る。エレベーターを降り、雨の中、傘もささずに歩き始める。
向かう先は、新宿三丁目の古いビル。看板には『記憶相談室・忘却堂』と書かれている。
ユイはドアを開ける。
中にいた男が振り返る。
——その顔を見た瞬間、君は息を呑む。
その男は、君だった。
第三章 亀裂
君はクリニックのベッドの上で、跳ね起きる。
汗びっしょりだ。心拍数が異常値を示している。医師が駆け寄ってくる。
「どうしました、大丈夫ですか」
「いや……いや、なんでもない。少し休ませてくれ」
君は嘘をついた。なぜ嘘をついたのか、自分でもわからない。
クリニックを出て、雨の中を歩く。傘はささない。ユイがそうしなかったように。
——なぜ、ユイの記憶の中に、君がいた?
考えろ。論理的に考えろ。
可能性は三つある。
一つ。ユイは生前、君と会っていた。けれど君はそれを覚えていない。 二つ。記憶チップが改ざんされている。誰かが意図的に、君の顔を埋め込んだ。 三つ。これは「ユイの記憶」ではなく、「君自身の記憶」が混入している。
どの可能性も、君を不安にさせる。けれど一番恐ろしいのは、三つ目だ。
君は事務所に戻る。ファイルを漁る。過去の依頼記録、過去の顧客リスト。「相沢ユイ」という名前は、どこにもない。
けれど、君のスマートフォンの通話履歴を遡ると——三週間前、知らない番号からの着信が一件、記録されていた。
ユイが殺された日。
通話時間、四十七秒。
君は、その通話の内容を、覚えていない。
第四章 忘却堂
ここで、君は選ばなければならない。
選択肢A:警察に相談する。 選択肢B:ユイの母親に問い詰める。 選択肢C:『忘却堂』に直接行く。
——もし君が私だったら、どれを選ぶ?
いや、答えなくていい。君はもう選んでいる。なぜなら君は、探偵だからだ。
君は『忘却堂』に向かう。
新宿三丁目の古いビル。エレベーターはなく、軋む階段を四階まで上る。ユイの記憶の中で歩いた、まさにその道だ。けれど不思議なことに、その道は君にとっても、どこか「懐かしい」。
ドアの前に立つ。
「記憶相談室・忘却堂」
呼吸を整えて、ノックする。
「どうぞ」
低く、平坦な声。
ドアを開けると、薄暗い部屋の中に、痩せた老人が座っていた。八十は超えているだろう。けれどその目だけは、異様に鋭い。
「ようこそ。お待ちしていましたよ」
「私を、知っているのか」
「知らないわけがないでしょう。あなたは三週間前、ここに来ましたよ」
世界が、ぐらりと揺れる。
「……何の話だ」
老人は微笑む。慈悲深く、けれどどこか残酷に。
「あなたは依頼に来たのです。『自分の記憶を消してほしい』と。ある女性を——相沢ユイさんを、殺害した記憶を」
第五章 真実、あるいは
君は立ち尽くしている。
膝が震えている。これはユイの恐怖か、君自身の恐怖か、もうわからない。
「嘘だ」
「嘘ではありません。証拠もあります」
老人はホログラムを起動する。空中に映し出されたのは、三週間前の防犯カメラ映像。この『忘却堂』に入っていく、君自身の姿。
「あなたは依頼を完了しました。私はあなたの記憶から、ユイさんに関する部分を完全に削除した。報酬も受け取った。けれど一つだけ、あなたは私に約束させた」
「……何を」
「『もし自分が再びユイのことを調べ始めたら、その時は全てを話してくれ』と」
君は壁にもたれかかる。床に座り込む。
——では、ユイの母親は? なぜ君に依頼を?
老人は答える。まるで君の心を読んだかのように。
「ユイさんのお母様も、私の顧客です。彼女は娘の死の真相を知りたかった。けれど警察は動かない。だから彼女は、ある仮説を立てた——もし犯人が記憶を消していたなら、被害者の記憶を移植することで、犯人自身に真実を思い出させられるのではないか、と」
「彼女は、知っていたのか。私が……」
「いいえ。彼女はただ、優秀な探偵を雇っただけです。あなたが犯人だとは知らない。けれど結果として、あなたは自分自身を追い詰めることになった」
君は笑い出す。乾いた、壊れた笑い声だ。
「私が、殺したのか。ユイを」
「それは、わかりません」
老人は静かに首を振る。
「私が削除したのは記憶です。事実ではない。あなたが本当にユイさんを殺したのか、それとも別の理由で記憶を消したかったのか——それを判断するのは、私の仕事ではない」
第六章 最後の選択
君は事務所に戻った。
机の上には、青く光る記憶チップ。ユイの最後の記憶。
そして、もう一つ。君がクリニックから持ち帰った、もう一枚のチップ。それは、今日の移植の「副産物」だ。ユイの記憶を再生する過程で、君自身の脳から漏れ出した、断片的な「何か」が記録されている。
このチップを再生すれば——おそらく、君は思い出す。三週間前の夜、何があったのかを。
君が本当にユイを殺したのか。 あるいは、別の何かが起きたのか。 そして、なぜ君は記憶を消したかったのか。
君の手は、震えている。
ここで、最後の選択がある。
選択肢A:チップを再生し、真実と向き合う。 選択肢B:チップを破壊し、これ以上の自己崩壊を避ける。 選択肢C:ユイの母親に全てを話し、警察に自首する。 選択肢D:このまま事務所を出て、姿を消す。
——君なら、どうする?
考えてみてほしい。本当に、考えてみてほしい。
真実を知ることが、常に正しいとは限らない。 忘却が、常に罪とは限らない。 記憶を消した「過去の自分」には、何か理由があったのかもしれない。 あるいは、ただ罪から逃げたかっただけかもしれない。
君の指は、机の上をさまよう。
そして——
終章
雨が、まだ降っている。
君は窓の外を見ている。
机の上には、二枚のチップ。一枚は青く光り、もう一枚は赤く明滅している。
君はゆっくりと、手を伸ばす。
そして——
(ここから先は、書かれていない。なぜなら、この物語の結末は、君自身が選ぶものだからだ。君がどちらのチップに手を伸ばしたか。あるいは、両方を破壊したか。あるいは、何もせずに事務所を出たか。それは、君だけが知っている)
ただ一つ、確かなことがある。
記憶とは、自分が誰であるかを定義するものだ。 けれど時に、記憶が自分を裏切ることもある。 あるいは、自分が記憶を裏切ることも。
君は探偵だ。 他人の記憶を辿ることで、真実を追ってきた。 けれど最後に追うべきだったのは、君自身だった。
雨は止まない。
ホログラム時計が、午前三時を示している。
君の手は、ついに——
——どちらかのチップに、触れる。
(了)
作者あとがき:この物語には、明示的な結末がありません。それは怠慢ではなく、設計です。記憶と自己同一性を巡る物語において、「真実を知ること」と「自分であり続けること」は、しばしば両立しません。あなたが最後にどちらのチップを選んだか——その選択こそが、あなたが「探偵」として、そして「人間」として、何を大切にしているかを映し出す鏡になるはずです。